やはり人生は短いので、人間関係に関して「やらない」と最近決めたこと7選

人間関係

最近、人生の短さを改めて考えたとき、色んな選択肢を手元から捨てることの重要性を感じた。

何でもかんでも手を出してみたり、誘われればどこにでも行くスタンスだった。新しい体験に闇雲に価値を見い出してきたとも言える。

しかし、そのフェーズはもう終わらさなければならないと思う。

なぜなら、色々やってる場合じゃないからだ。

AIやブロックチェーン、DAOやメタバースを始めとする、いわゆるWeb3.0と呼ばれる世界の進展が、現実に大きな影響を及ぼしてきている。この大きな加速度的変化の荒波に向き合い、これからの時代を納得感を持って生きていく方向に諸々の資源を投下しなければ、社会的な価値がどんどん薄れていくことが目に見えている。

そのうち、働かなくても生活していけるようになるだろう。しかし、やりたいことをある程度自由にやろうと思ったとき、やはり資本が要る。それは少なくとも当分は変わらないだろう。そして、社会に対して価値をもたらす側でなければ、資本を満足に得ることはできない。

だから今向き合うべきは、「こうした新たな技術を使いこなして時間やエネルギーを捻出し、それらを使ってまたレベルアップしていくこと」だと思っている。

無論、以下に述べる選択を一生取らない、というわけではない。今後の状況によっては、また価値を見出すことになる可能性も十分あるだろう。そのときはそのときで、柔軟に考えていければと思う。

異性との出逢いを求めて行動すること

少なくとも私の場合、普通に生活していれば、出逢いはほぼない。マッチングアプリをしようと思った時期もあったが、結局二の足を踏んで始めずにいた。(社会人1年目の秋に一人だけ会ったが)

自然な出逢いがいいと拘っていた時期が長く、妥協してマッチングアプリをしようと思ったこともあったものの、面倒さが勝っていた。

それでも何も行動しなければ、何年か経っても今と同じままだろうとも思っていた。だから、アプリでもやってみようかと、最近傾きつつあった。

しかし、やはり少なくとも今ではないという結論に至った。

理由としては「①多大な時間とエネルギーを要するから」「②あまりカネがないから」「③自分のレベルが低いから」

①については、例えばマッチングアプリを上手く使えた場合、何人かとやり取りを重ね、何人かと何回かデートを重ねる中で、時間もカネもエネルギーもかなり投下することになるだろう。もともとそこにためらいを感じていたが、今の社会情勢を踏まえると、さらにシビアに捉える必要性を感じた。

②については、そもそもお金がない。使ったりなくなったりで、貯金など一向にできない。デートするとなると、大抵男の方が出すことになる。私は男が奢ってナンボという風潮が嫌いだが、実際のところ、そうも言ってられない。だから厳しい。

③については、類は友を呼ぶし、人は似たレベル同士でくっつくものであるという前提がある。今の私の総合レベル(自律性・仕事・経済力・外見・性格・コミュ力・諸々の経験値など)を5とすると、せいぜい5前後の相手としか付き合えない。100まで上げてから恋愛しよう、とまでは思わないけれど、今のレベルはあまりに低いと自覚している。だから、もっと上げることを優先した方がいい。

というわけで、もう何年も前から若者の恋愛離れ・草食化が叫ばれているが、私もそんな一人というわけだ。

目的の不明瞭な不特定多数のパーティに行くこと

先日、大学時代の友人から、私とは縁遠い特定の業界に関する100人規模の交流パーティに、業界外の人枠として招待があり、参加してきた。私はもともとこの手の交流パーティは苦手であり、ためらいはあった。しかしこのような機会はこの数年ほとんどなく、また在宅仕事でコミュ障が加速しているのでリハビリしたいという意識もあり、行ってみることにした。

3時間ほどのパーティの中で、色んな人と会話を交わした。しかし特段楽しいわけでもなく、内心めちゃくちゃ疲弊していた。友だち作り感の強いパーティだったが、別に友だちが欲しいわけでもなかった。特に明確な目的もなく薄く広くコミュニケーションを取る場が、私には無意味で退屈に感じられた。面白い人とは知り合いたいとは思うものの、その遭遇確率を考えると、もっと他に行く場所がいくらでもあるだろう。

そもそも人が多くても話せる相手は限られている。人が多いと騒がしくてコミュニケーションに支障が出る。わざわざ声をある程度張らないと互いに聞こえにくいような、ストレスのかかる環境はなるべく避けたい。

人選が練られた数十人規模程度までのパーティ、コミュニティを同じくする人たちのパーティ、明確なテーマのあるパーティ(何かのイベントのアフターパ―ティなど)であればまだいいが、この手のパーティはもう行かないと決めた。

昔こんな記事を書いてはいるけど。

行くか迷うレベルの期待値の誘いに乗ること

新しい体験は、得られるのならなるべく得たい。それを通して見える景色を、知りたい。どんなものに対しても好奇心を抱き、踏み込めることは素晴らしい。好奇心とは人間にとって最も根源的な要素だ。

それで良かった時期もあったかもしれない。しかし、新しい体験にはキリがなく、「なんでもやってみよう」の姿勢を続けるには、人生は短すぎる。

仮に人生がもっと長いとしても、この変化が激しい時代においては尚更「今何をするか」が重要である。体験することを否定するのではなく、価値を低いと決めつけるわけでもない。先入観を持ちすぎては偏狭になってしまう。一定のバランスが大切ではある。

「行ってみたら案外良かった」ーよくあることだ。
そして「行ってみたら案外微妙だった」ーこれもよくあることだ。

どう転ぶかはどうせ分からない。期待値の低いものはもちろんのこと、迷うレベルの期待値であれば、いっそ選ばないという勇気も大切だ。そして、期待値の高いものを、テーマを持って、優先的に選んでいきたい。そのテーマは高尚なものである必要はない。一度体験してある程度満足してしまえば、優先順位は自ずと下がるものだが、それでいい。下がらなければ、続ければいい。

「良いかもしれないけど、めちゃくちゃ惹かれるわけでもないから、今はいいかな」という姿勢で、間引いていく、ということだ。そして、本当にやりたければ、待たずとも自分から誘えばいい。

長い時間を誰かと過ごすこと

世界の人口は80億を突破したが、人生80年として、約25億秒。これから生まれてくる人は考慮に入れないとしても、どう足掻いても1人に平均0.3秒程度しか割くことができない。1時間を割くだけでも、かなり凄いことだ。

例えばただ会話を目的としているのであれば、せいぜい一度に数時間、長くて4時間程度でいい。惰性で5時間も10時間も一緒にいて、希薄化した時間をともに過ごすよりも、自分だけでコントロールできる、一人の時間を過ごしたい。過ごさないといけないと思う。そして、長い時間を過ごさないと決めるからこそ、密度を高くしようとその瞬間を大切にできる。

そもそも、人と会うのはたまにでいい。会いたい相手であれば会えばいいし、イマイチ乗り気がしない相手であれば、会わなければいい。

人に期待すること

無論、仕事の場合はある程度期待がないと成り立たないものであるが、それ以外については、期待せずに自分のペースでやるのが、メンタル上適切であるということを、最近改めて感じている。

LINEで未読スルーなのにSNS上では元気に投稿していたり、頼み事をしてきたくせに肝心なところで未読スルーだったり…我ながら小さいことで地味にストレスを溜めることがあった。

しかし、そんなどうでもいい、くだらないことに意識を向けるのは、他者の反応の有無に気分を左右されるのは、あまりにバカバカしい。

だから、何か重要な目的がある場合を除けば、人に返信を期待するようなやり取りは、しない。

SNSで知人友人の投稿を無闇に見ること

なぜなら、本来どうでもいいことだからである。仲良かろうが、それは同じだ。10年前は、触れないのが当たり前だったわけで。しかし、本来どうでもいいことなのに、気が付けば日常的に自然と触れてしまっていた。

それでもつい見てしまうのは、何か機会が転がっていたりするからである。実際、Instagramのストーリー投稿をきっかけに何か面白いコミュニケーションが生まれたり、誰かが何かを募集しているのを見て、一緒にやることになったり、紹介されている良い作品に触れることになったり、ということもある。それらは捨てがたいと感じる。

しかし、そんなものは全体のごく一部であるし、頻発するものでもない。関係性を浅さ深さを問わず、期待値高めの人の投稿だけ触れるようにしたいと思い、しばしばミュートするようになった。また、そもそもあまり開かなくなった。

世話を焼くこと

前提として、求められないことはしないし、考えない。

求められればなるべく応じたいが、応じ方については検討の余地がある。

なるべく作業せずに済む方向で、価値を出そうとする。

状況にもよるが、例えば長い文章の校正を求められたとして、文字通り校正するのではなく、全体の方向性を提案する。速い走り方を教えてと頼まれたとして、速い走り方に関する動画のURLを送る。など。

色々楽していかないと、楽できない。ますますそんな時代になってきた。

総論

もちろん人生、何がきっかけになって何が生まれるかは分からない。何となく誘いに乗って出かけたら感動体験を得られるかもしれないし、面倒だったけど参加したパーティで運命的な出逢いを果たすかもしれない。

しかし、機会損失を防いだところで、それ自体がまた別の機会損失を生んでいるわけであって、今目の前にある選択は、たまたま今目の前にあるだけであって、そこに運命や必然性を感じる必要は、客観的に見て、ない。

「何事にも意味はある」「どんな経験にも価値はある」なんて綺麗事に過ぎない。例えば20代から40年間引きこもりニートを続ける男が、最近になって「人生は短いから、たとえ失敗してもいいから後悔しないように何事も挑戦する方が、何もやらないよりもずっと価値がある」という気付きを得て、何かしら挑戦を始めるに至ったとする。じゃあその40年は無駄ではなかったか、というと、本人にとって価値ある気付きを得られたのだから、無駄ではないのかもしれない。しかしその40年間で、何ができただろう?遥かに多くの、そして密度の高い様々な気付きや経験が得られる過ごし方はいくらでもあっただろう。

今選ぼうとしているそれは、今日という時間を費やそうとしているそれは、その人やそのイベント、その場所である必要はあるのか?目の前にあるから変に意味を見出そうとして、思考停止しているだけではないのか?流れに身を任せるのも面白いが、流されすぎると、本来大切な様々なものを、気付かぬうちに失うことになる。

無論、結果どう転ぶかなんて最後まで分からない。正解なんてない。納得感を抱いて選べるかどうかの話に過ぎないが、スタンスとして一旦固めておいた方が迷いが生じにくいので、以上を踏まえた日々を当分は送っていきたいと思う。

2023/04/08

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