「男が奢って当然」への違和感との向き合い方

価値観

5月半ば、あることをキッカケに突如として会社を辞めた。
決めたその日のうちに雇用関係は解消された。
それから半年間、無職をしていた。(終盤は少しだけ業務委託で仕事をしたが)

そんな頃、とある男の先輩らとの飲み会でのこと。
会計時に、一緒に飲んでいた5-6歳ほど年上の女性たちに奢らされるハメになった。それも2回も。

彼女たちは仕事をしていて、しかも専門職だったりするのでお金もある。
しかしその先輩や女性たちは、男がお金を出して当然という考えの持ち主だった。

私は納得がいかなかった。
レディファーストだのなんだのという価値観には小学生の頃から違和感があった。
「女性だから優遇されて然るべき」と考えてる人に対しては男女問わず首を傾げざるを得ない。
確かに世界的に女性の方が平均所得は低い。しかしそれはあくまでマクロでの話だ。
男が奢って当然という姿勢は、すなわち女性を非力なもの、稼げないものと捉えているから生まれるものなのではないか。
2020年代の、それも日本においてそんな時代錯誤的な考えを押し付けられてたまるか、と感じた。

固定観念的義務感を以て機械的に奢ったり相手を優先したりするのではなく、あくまで相手への敬意や感謝、親しみ等の表現手段としてそうするのであり、その相手が女性だった場合結果として「レディファースト」という呼称を与えることができるというだけの話だ。
本来そこに生物学的性別(及び年齢肩書き等)への考慮の意図はない。
性というラベルを通してではなく、他でもないその人そのものに向き合うのが真のリスペクトだ。

別に仕事と収入がないからといって奢ってもらえて当然だなんて露ほども思わない。
それと同様に、女だからといって奢ってもらえて当然だなんて片腹痛い。
年齢や性別など関係なく、フラットに付き合って然るべきだ、と思った。
結果、その場の空気は少し悪くなった。

それから間もなくして、就職が決まった。
当然ながら安定収入が入るようになった。

そんな今、私の財布のヒモは緩い。
男が奢って然るべきとか、いやいやフラットに男女平等であるべきだなどと、あまり考えなくなった。

もちろん、男が出すべきだという考えには納得しかねる。
相手を思う気持ちや感謝の念が結果として奢りだとか相手ファーストという行動や姿勢に結びつくのであって、年齢や性別といった表面的な記号に支配されるのはどうなのかとも思う。
ここは譲れない。

しかし、そんなことに拘って出し惜しみするのは面倒でダサいと感じるようになった。
それは余裕のなさを意味するからだ。

モノにはよるが、人は余裕がなければ拘りが強くなる。
例えば小学生の頃、ショートケーキのイチゴなどを親が私に譲ってくれるのが不思議だった。「もらっちゃっていいの?」という驚きがあった。
親はそれまでの人生で色んな食を何度も味わいまくっていたわけで、だから率先して他者に分け与える余裕があった、というだけの話だ。(仮に私に対する愛情がなかったとしても食い意地を張ることはなかっただろう)

当然ながら人はそれぞれ価値観が違う。
相手との違いに直面するたびに主張や議論をするのが得策とは思えない。
色んな人がいる。そして、人を変えるのは容易でない。
であるなら、果たしてそこにエネルギーを注ぐべきだろうか。

どうしても受け容れがたい部分/譲れない部分においては主張すればいい。
しかし、そんな局面を減らすことができれば、相手のスタイルを尊重したとしても自分にはあまりダメージがないという状況を増やすことができれば、もっとストレスフリーで生きられるだろう。

結局、自分にどれだけ経済力があるかが大きな問題だったのだ。

無職のときは特に余裕がなかった。
国民健康保険料も住民税も滞納していたし、消費者金融も利用していた。
そんな状況下では「男が奢って当然」という価値観を現実の場で受け容れることへの抵抗が大きかった。

しかし就職してからは、「空気が微妙になったりするくらいなら、多少自分の支払額が大きくなろうとも、その日の後味を良くする方がコスパが高い」とも思うようになった。
「男は奢って当然」「女は奢られて当然」というスタイルの人と飲むときは、十歩譲ってそのスタイルを尊重するという余裕が生まれた。
そんなところでイチイチ価値観をぶつけ合うくらいなら、自分の器を大きくして相手の価値観を尊重する方が楽だ。そうでなくとも会計時の面倒は避けたいので、相手がそういうスタイルでなくとも関係性によっては自分が率先して出すことも多い。(性別や年齢や肩書問わず。もちろん相手に好感を抱いていることが前提だが)
「価値観が違うのなら付き合うのをやめればいい」という考えもあるだろうが、どんな相手であれ良いと思える部分もあればそうは思えない部分もあるのだから、価値観の違いがその関係性を大きく揺るがすことになるとは限らない。良いと思える部分と付き合えばいい。

無論、「まあ社会って、ある種そういうもんだよね、価値観は人それぞれだしそこで理屈をこねあうのは面倒だし、俺には余裕があるから甘んじて受け容れてやるよ」というのは思考停止的姿勢であるとも言える。

しかし、自分が確実にコントロールできる物事にのみフォーカスするのであれば、目の前にある選択肢は
①価値観の合わない物事/人とは関わらない
②そもそも拘りを発揮しない

の2択だろう。

①の姿勢では失うものが多すぎる。というより得られないものが多すぎる。
だから私は②を選択したい。より広範囲に②を選択できるようになりたい。

先日会社の先輩と「どんな女性と付き合いたいか」という話になったとき、先輩は「お金がかからない人がいい」と言った。

必要最低限を上回るお金がなければ終わる関係性は、本当の愛ではないと私は思う。
お金は相手との関係性を繋ぎ留めるためのツールでは決してなく、あくまで「あれば便利なもの/生活を彩るもの」という位置づけであるという認識を互いに共有できるのなら、2人を介在する感情はきっと本当の愛だろう。
その点、先輩のその希望は納得のいくものであった。

一方で、「今の先輩の経済力が先輩をそう感じさせているだけでしょう」とも思った。
もし先輩に云十億もの資産があれば、「お金がかからない人がいい」だなんて考えが自発的に出てくることはないはずだ。

私だって高級クラブで一晩に100万も使う経営者を見てお金が勿体ないと感じるけれど、それは自分の経済力が自分をそういう発想に至らしめているだけであり、彼らにとっての100万は今の私にとっての松屋の牛丼大盛りくらいの感覚なのかもしれない。

それと同様に、私がナイトクラブで使う5千円を、多くの小学生は勿体ないと感じるはずだ。それだけのお金があれば彼らはどれだけのお菓子やオモチャを買えるだろう。

つまり、力があれば細かいことは気にしなくなるものである、ということだ。

もちろんこれは経済力に限った話ではない。そしてそれらはあくまで相対的なものである。
だから会計が30万でその全額が私持ちで当然、みたいなシチュエーションであれば、流石にそんな余裕はないのでポンッと出すわけにはいかない。(まあそんな状況に身を置くことはないだろうけれど)

とはいえ、女だから奢られて当然というスタンスの人との関係は個人的には長くは続かないだろうなとは思う。(お金どうこうより人として尊敬できない)
基本的には男も女も立場はフラットであるという前提に立ち、性差など考慮に入れない自立した人間としての付き合いが望ましい。

ただ、世の中色んな人がいて色んな付き合い方があるわけなので、対応力を高めるべく視座を高くするために、拘りを発揮する次元を高めていくために、何にしてももっと力を高められるといいね(貴方も私も)、というのがこの記事の結論です。

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