About HATHA

ブログをご覧いただき有難うございます。HATHAと申します。

幼少時代

平成1桁年、関西の地方都市にて生誕
いつもニコニコしていて手間のかからぬ赤子であったという。

不適応などにより保育園を2度中退したのち、幼稚園に編入
お遊戯に力を入れる保育園に入ってしまい不適応を起こす。(保育園の舞台発表「おむすびころりん」の最中に立ち止まって失禁、舞台袖まで引きづられるなど)
日々お絵描きやフィギュア遊び、妄想ごっこを嗜む。3歳からスキーに親しむ。
飼育していたダンゴムシを好奇心などから水攻めで殲滅してしまい、罪悪感を抱く。
お泊まり保育は嫌すぎてサボった。

親に連れられてよく海外旅行にいく
オーストラリアの田舎町でファームステイしながら小学校に通うなど。

小学時代

漫画を描き始める
小1のときに漫画を買ってもらえなかったため自ら描きはじめ、そこから高3に至るまで日常的に続ける。

モンゴルに行く
親の知り合いのツテでモンゴルの草原に少し滞在し、馬に乗って草原を駆け回る。空港で朝青龍のお腹を触ろうとして近づき握手される。

学習塾にぶち込まれる
しかし、宿題を苦にしてすぐ辞める。翌年、別の学習塾にぶち込まれるも、校舎が病院臭いなどとイチャモンをつけてすぐに辞める。

担任に反発して居心地が悪くなる
日々空想に耽り、インドア好きの内向性の高めな少年であった一方、喧嘩っ早く協調性に欠けていた。担任の方針に反発して授業をボイコットしたりしているうちに、その担任が人気教師だったこともあり、クラスのほぼ全員を敵に回したりする。

筋トレを始める
居場所がない状況で救いを求めたのか、単純にカッコいいと思ったのか、シュワルツェネッガーなどのアクションヒーローに憧れるように。足に重りを巻いて生活したり学校や家で腕立て伏せや腹筋をしたりと、一人筋トレに励んでいた時期もあった。

ちょっと外交的になる
人に認められたい思いや好きな女の子に好かれたい思いなどから、外向性が強化され、不器用でシャイで反抗的な側面は少しずつ薄まる。
最終的にはクラスの輪の中へと歩み寄り、迎え入れられたことで、自分が変われば周りも変わるということを強く認識させられる。(この頃のあだ名は「ボス」)
また、この頃から卒業に至るまで、筋肉同盟の名のもとに自由帳にデスノートや北斗の拳、ハガレンなどを混ぜ込んだドラえもんのパロディ漫画を描きつづける。

中学時代

地元の公立中学でサッカー部に入る
部活では理不尽な要求を繰り返す先輩らとすぐに対立。サッカーよりも格闘寄りな日々を送ることになる。部外者も混ざってきて、問題が発展。自転車置き場で決闘などしていた。
最終的に、1日に4回校内放送で呼び出された挙げ句、校長室で校長・教頭・顧問・担任などを前に一部関係者と並ばされ、喧嘩両成敗的な流れに。顧問は家に謝りにきた。

学習能力が低く問題行為を繰り返すも更生する
ほぼ毎日の忘れ物や反抗的な態度、その他様々な問題行動により、中1前期は学期中通算最多の校内放送呼び出しをくらう。しかし、中1の後期以降は内申書を意識して突如優等生化する。

生徒会長として色々やる
部活にはたまにしか行かなくなった一方で生徒会長に立候補し、演説・選挙を経て就任。
通常業務のほか、平和学習や海外震災募金などを独自に提案・実行する。屋上開放や自販機設置にもトライするが失敗に終わる。
また、治安が乱れつつあった校内において治安維持活動(喧嘩・暴力の仲裁)を行うなどブイブイ言わせる。
当時のあだ名は「会長」「ボス」「兄貴」「番長」「最強」。

なお当時のイキりエピソードとして、中1の夏にフランスに渡航して美術の宿題「美術館レポート」の題材にルーブル美術館を使用したというものがある。

高校時代

県内最難関の高校に入学するも、たるんでいく
入試成績がトップだったらしく、入学式では生徒代表として宣誓する。その延長で地方テレビに出演して喋る。
しかし高校1年の終わり頃には勉強メインの退屈な生活を嫌い、次第にたるんでいく。いつも遅刻か遅刻ギリギリでの登校だった。

部活を作ろうとするも失敗して格闘技を始める
筋トレは集団でやった方が継続できると考えて筋トレ部を作ることを考える。メンバーや顧問を集め、メニューも考えたが理事長に却下され、妥協策として格闘技の部活に入ってサークル感覚で緩く楽しむ。

教師と対立してやめさせる
怠慢で理不尽な教師と対立するようになる。思うことがあっても反発するなと担任から言われたものの、授業に出れば反発しそうだったのでボイコットして大勢の職員たちに学外まで捜索される。そこから学年主任や教頭と話し合いの場が何度か設けられ、もともと評判が悪かったその教師は翌年からいなくなる。

リスクテイキングに走り、勉強しなくなる
単調な日々に飽き飽きしていたこともあり、特に高2からは刺激を求めて逸脱行動に走るようになる。高1までは勉強への意識が高かったが、高2に入る頃から中だるみ状態になる。

フィーバーが起きるも3ヶ月ほどで鎮火する
高2になったとき、なぜか男女問わずチヤホヤされる現象が起きた。しかし、逸脱行動が徐々に目立つ中、対人イメージのコントロールなど意識が及ばず、平民に戻る。

また生徒会に入る
遅刻やギリギリ登校が多く、教師との対立などがあったにも関わらず、そういった行動が評価されたことに加えて当時は成績上位であったことにより、高校2年時に教師陣から学級員長と生徒会役員に推薦される。

不登校になる
高3時には学校に行くのが面倒かつ、それまでサボりすぎていて社会科目なんて国立二次論述対策どころではなかった(知識を入れるところから)ので40日以上欠席する(3日に1回くらい登校)。家に引き籠もったり山や海に行ったり自主学習したりして過ごす。早く新天地に行きたいという気持ちが強かった。

過ごし方を激しく後悔する
高3の終わりに、それまでの狭い視野での過ごし方に気付く。その日はとりあえず深夜徘徊した。
大きな後悔に苛まれ、以来チャンスを逃すまいとアンテナを高く張るようになる。

大学受験後に放浪する
高1から見据えていた大学を受験するも結果は不合格。
その流れで東京をしばらく放浪後、色々あって宮城の震災NPO拠点に10日間ほど滞在し、老婆たちとの農業や仮設住宅の寺子屋での学習指導などに励みながらそれまで出逢うこともなかった様々な大人たちに触れ、大いに刺激を受ける。ここで旅に目覚める。

浪人時代

浪人生となり予備校の寮に入る
3月末頃、旅を終えて帰郷後まもなく、大阪にある予備校附属の寮に入って浪人生活を開始。
北海道から沖縄まで100人近くの浪人生が集う寮であった。

逃げから始まり、志望校を変える
高校時代から続く受験ムードを、もう一年続けると考えるだけで気が滅入った。それまでは志望校以外の大学進学についてほとんど考えていなかったが、受験から逃避したい気持ちがキッカケとなって、他大学も含めて改めて進学先について真剣に検討することにした。
自分が求める条件を改めて言語化し、地域の図書館やネットリサーチ、様々な大学の説明会が行われるイベントなどで大学に関する情報を収集。5-6月頃には志望校を変更した。

ニートと化し、よくネカフェに通う
予備校や寮には、帰郷後に時間がない中で成り行きで入ってしまっただけだった。しかしそもそも私は授業を受けること自体が苦手であり、また志望校の変更により受験難易度が大幅に下がったこともあって、5月中旬は授業に行くことはほぼなく、ニート的生活を送るようになる。
アンテナを高く張りたいとの思いからネット環境を求めて5日に1回、4-6時間ほどネットカフェに籠もっていた。(寮ではネットを使えなかった)
その他、GEOやTSUTAYAで映画やドラマや漫画を漁りまくったり、自転車でフラフラと出かけたりしていた。

11月末の模試で危機感を抱き、勉強に打ち込む
勉強をサボった結果、予備校のセンター模試では現役時よりも成績が下がっていた。何のために浪人しているのだろうと感じる中、「浪人したことに意味を与えるには、一生懸命頑張ったという経験を得なければならない」と考えるに至り、受験勉強を本格始動。成績が大幅に向上し、なんとか帳尻を合わせて大学に入学する。

大学時代

大学時代は、
・心の高鳴る空間に臆せず飛び込んでいく好奇心と冒険心
・それを実現するフットワークの軽さと逃げ足の速さ

を武器として様々なことを体験しながら
・言語化による整理、体験から経験への落とし込み
を繰り返す中で、自分自身の哲学・価値観を醸成することに励む。

南米に留学する

1年間の留学中は、週6で体育の授業を受け、キューバをタクシーで廻り、メキシコで沈没し、グアテマラの湖畔で学校に通い、コロンビアの奥地でホームステイして、ペルーのシャーマンのもとで修行して、ブラジルとの国境で反復横跳びをして、パナマのパリピ村で色んなものにまみれながら年を越したりする。

詐欺に遭い困窮し、歌舞伎町で日銭を稼ぐ
留学終盤から帰国後の数ヶ月にかけて、知り合いの大使館の男(日本人)に100万近く詐欺られる。
金欠になって諸事情により辿り着いた歌舞伎町で紹介された元パチプロの凄腕と裏技のお陰で一旦息を吹き返し、その後はネカフェ難民しながら無料案内所などでしばし働く。
詐欺師に対しては裏で証拠を地道に固め、最終的に自白に追い込んで録音データを警察に提出する。その後捜査は進んだが、まだ結果は出ていない。

映像制作に興じる
浪人時代に始めた映像制作を大学在学中も続ける中、小規模ながらローカル企業のPV作りなどの仕事を依頼されるようになる。フィリピンの田舎に巨大魚を撮影しにいったこともあった。なおフィリピンでは東南アジア最大のスラムとされるスモーキーマウンテンの頂上で首長に招かれ泊めてもらう。

その他、学内の某コンテストに出場して過激派として活動した結果出場停止になり、その直後に反逆的に独自のコンテストを企画・開催してみたり、歌舞伎町の近くに引っ越してフィールドワークを繰り返して卒論を書いたり、ヒッチハイクでスペインやモロッコを旅したりと、色々ありつつも、留学含め5年で大学を卒業する。

新卒時代

都内のとあるベンチャー風企業に入社するも…
飲食関連新規事業開発(ITサービス)、損害保険関連代理店個人営業、新卒採用関連事務に携わる。

新規事業開発は「アルバイト」に絡むものであったため、フィールドワークのために実際に3ヵ月ほど週1-2で飲食店で仕事終わりにバイトもした。他社の社長との重要な打ち合わせの日に時間を勘違いして欠席するというやらかしもあった。

コロナの関係で飲食業界の先行きが不透明であったためその事業は凍結となり、次にアサインされた損害保険関連営業は違和感を抱きながらも様々な方法にトライし、毎日のように様々な業種の営業マンなどと会って話したり、全国各地の様々な方とオンライン面談を繰り返して採用・教育したりした。

しかしモチベーションがついてこない日々。一時を除いて求められる結果は出ず、また事業への違和感から何度も会社を辞めようと思い、転職サイトに登録したこともあった。

新卒9ヶ月で関連会社に移る
転職を考えていた12月、管理本部長に呼ばれた際に進退を考えていることを伝えたところ、翌日社長に呼び出されて設立1年目の不動産系の関連会社Bへの転籍を命じられる。
最初はそのつもりがなかったが、Bの社長とは面識があり、その狂った経歴が興味深いと思っていたので、クリスマスイブに履歴書をしたためて面接に行くことになり、取締役2人から圧迫面接を受ける。翌日クリスマスの社長面接、流れでやってきて、もちろん踏ん切りがつききっていなかったため「不採用」と言い渡されるも色々あって翌年1月からそこに身を置くに至る。

良くも悪くも狂った社長のもと、翌月からは契約社員という立場で通常業務(営業・事務)のほかWEB周りや新規事業開発などに携わる。パーカーにスニーカーにリュックで出社していたのが、いきなりスーツに革靴に革バッグへ。20代も女性も多い30人くらいの職場から、自分の次に若いのが34歳で男ばかり9人の職場へ。

その会社も4ヶ月強で突如退職する
ウザい取締役へのストレス、またとある事件とそれに伴う失恋によって精神が若干荒廃しつつも健気に働いていたが、入社から4ヶ月半ほど経つ頃、深夜に路上でとある事件が起きて社長に対して失望。そのまま30分歩いてオフィスに向かって全ての荷物を引き払ってキーや保険証などを残して去り、その日のうちに退職、新卒14ヶ月目にして急遽無職となる。

半年間のニート生活を経て再就職する
損害賠償金を貰って辞めたこともり、しばらくはNEETを謳歌していたが、身体に異常を来して1ヶ月半ほど入院生活を余儀なくされる。退院後、一時期実家に帰ったのち都内に戻り、8月半ば頃から就活を開始。その傍ら治験やWEB制作などを行う。

11月に総合広告代理店への就職が決まり、ディレクターやリサーチャー、PMなどとして働きはじめる。

これから

工事中

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