モラトリアム終了直前放浪紀行①「バルセロナ前編」

旅/紀行

5年間在籍した大学の卒業を目前に控えた2020年の2月9日から3月11日にかけての33日間、スペインとモロッコとギリシャを旅した当時の記録。(一部表記を変えるなど編集しています)

2月8日

「旅に出よう」

日本に生まれたことを主な根拠として日本に住み続けたくはないし日本で死にたくもない。
人生の長さを考えたとき、世界はあまりに広い。

だからまた旅に出ることにした。

2月9日

合理的に

小さなリュックを背負って家を出て駅に向かいながら、大きな方を選ぶべきだったと感じた。どうせリュックを背負って街を歩き回るわけじゃないのだし、お土産などを買うにはキャパシティがあった方がいい。ただほんの少しだけ持ち運びしやすくなるだけであり、ここで小さい方を選ぶその他のメリットなどなかったのだ。

成田空港のTravelexで両替したあと、思いのほか交換レートが悪かったことに気付いて落胆した。手数料の説明などなかったのに、ガッツリ取られていたからだ。一軒目で決めたのがいけなかった。二軒以上を見て廻り、得な方で両替すべきだった。

常に正しい方を、合理的な方を選ぶことなんてできない。何が良かったかなんてのは後になってから評価するものだ。しかし、少しでも立ち止まって、ほんの少し先でもいいから未来を想像してみれば、随分と違ってくるのに。

急いでいるときこそ丁寧に

深夜、スペイン・バルセロナのホステルに到着する。出迎えてくれたスタッフらはしばらくこの町に滞在することを決めた各国のバックパッカーたち。一緒にNetflixを観た。また、地下のラウンジでどこかから来た旅行者たちと旅の情報交換。錆びれたスペイン語のウォーミングアップ。

翌朝、ホステルで知り合ったエクアドル系イビサ人の男と街を散歩した帰り、SIMカードを買った。そこで案外時間がかかり、ホステルのフリーツアー出発の時間に少し遅れてしまった。部屋に戻り、ロッカーに入れたままのスーツケースからカメラを取り出そうとして、コンタクトの洗浄液を床に落としてしまった。洗浄液のボトルのキャップ部分が壊れて、蓋を閉めることができなくなってしまった。

急いでいるときこそ丁寧に立ち回る。でなければ、より時間や労力のかかる選択をすることになる。中1のときの担任はよく「落ち着いて慌てよ」と言っていた。自転車のチェーンが外れたときも、心を落ち着けて必要な動作を丁寧に繰り出せば、すぐに直る。冷静に、丁寧に。

旅の何にワクワクするのか

旅に出る前は確かにかなりワクワクしていた。しかし、ホステルのフリーツアーに参加してモンジュイーク城に向かう私の心境は悶々としていた。ただ観光地を巡っても、ワクワクへと繋がるわけではない。かといって大学1年の終わり頃にタイを旅したときのように人との関わりに喜びを覚えるかと言われれば、今となってはやはりそうとも限らない。刺激とは慣れてしまうものだ。

最近ワクワクしたのは、楽しかったのはいつだったかなと考えたとき、大学の友人たちとワチャワチャしていた瞬間とか、眼鏡のAクンと「みんはや」していた瞬間とか、博士課程のTさんと遊んでいた瞬間とか、まあ大体友達が絡んでくる。あとは好きな子とのやり取りやデート、自分で企画して実行に向けて動き回ったり戦略を立てたりしていたときなどが思い浮かぶ。要は、不確実でチャレンジングなことだ。

さて、一人旅においてはどうだろうか。
かつては戦の舞台となり、今はザ・観光地となっていて日本からも多くの旅行者が訪れるモンジュイーク城の平和な風景を感じたあと、まだ靱帯の治らず本領発揮できない足(卒論執筆にあたって歌舞伎町でフィールドワークしていたら路上でゲイの女装家に捕まって連れていかれた店でしこたま飲んだあと、トチ狂って路上を全力で走ったら5秒で捻った)を運びながら、気の赴くままに山を下っていたときに私は認識することになる。

カラフルな絵が描かれたコンクリートの壁に(ガラスなどが剥き出しになっていないか気を付けながら)手をかけ、その向こうに誰も歩いていない巨大な墓地が見えたとき、私は自分がワクワクしていることに気付いた。それからその墓地に入るために、身を屈めて木々に囲まれた細い道を抜けているときも、私はワクワクしていた。そしてさっきまでとは打って変わってほとんど誰もいない巨大墓地に入り、その芸術的なデザインや構造、私が生まれる前に亡くなった人たちの静かに佇む無数の墓、海辺の工業地帯を臨む美しい景色、光沢のある美しい赤い花びらなどを目の前に、私は感動していた。

過去の旅を思い出す。メキシコでつるんでいたスイス出身の放浪者やペルーで家にしばらく泊めてくれたアイツのように仲良くなった人たち、ふとした縁から訪れたコロンビアの田舎で出逢い共に過ごしたあの子やグアテマラの静かな湖畔を一緒に泳いだパナマのあの子のように心をときめかせた女性たちも、旅の醍醐味だった。

不確実でチャレンジングなこと、そして友情とロマンス。それらこそが私の旅を盛り立て、私をワクワクさせてきた。ならば掴みにいこう。どこまでも。

カメラ

美しい巨大墓地でシャッターを切りまくったあと、私は思った。美しい場所に出かけて写真を撮って、それで何が残るのか、と。これまでの旅でも何度も感じてきたことだ。

きっと、これから出かける先でもカメラを取り出しつづけるだろう。バルセロナのサグラダファミリア、セビジャやグラナダの街並み、モロッコの青い街シャウエンなど、これから向かうフォトジェニックな場所を想像すれば、自分がそこで同じような行為を繰り出すであろうことが想像され、まるで「作業」か何かのように思えてくる。

写真を撮ることは義務ではない。強迫観念的に写真を撮りつづけるなんてことはしたくない。自分がそこを訪れた証拠を目に見える形にしたいという意識が働くのか?それならば、脳死でシャッターを切り続けるよりは、こうやって心に寄り添って言葉にした方が有意義で、かえって残るものが大きい。

もっとリアルを見つめ、頭と心と五感を働かせよう。それらに委ねよう。それを踏まえて、撮りたければ撮ればいい。ただし、メインは自分が何を見て何を感じるかだ。

2月10日

幸か不幸か

サグラダファミリアに向かう途中、ふとインスタグラムを開く。大学の友人Fのストーリー投稿が目に映る。最近まで房総半島を一人で歩いていたはずの彼は、何人かでスキー場のリフトに乗っているようだ。画質が悪いながらよくよく見てみると、4人乗りリフトに同乗しているのは大学の同じ界隈のメンツのようだ。

このとき私は、凄く羨ましく思った。もし私が日本にいれば、誘われていたのだろうか。旅行を始めてまだ2日目とはいえ、既に孤独や疲労を感じていた。彼らと一緒にスキーに行ってから海外に出ればよかった。惨めになった私はインスタグラムのアプリを削除した。SNSは幸福度を下げるというが、今回はまさにそれだった。

そのような機会を逃してまで旅に出たからには、この旅を充実させなければいけない、正解にしなければいけないと感じた。しかし、変に焦って本望でもないことをしても仕方がない。ただどこかに行けばいいというわけでもない。どこに行くかよりも何をするか、どう関わるか、何を感じ、考え、学ぶかだ。

美とカップル

サグラダファミリアには予約サイトのシステムエラーで入れなかったので、その代わりに同じくガウディの作品であるグエル公園に歩いて向かった。日本人の女子大生と思しき人たちが何組かいた。孤独感から、何かの拍子に会話が始まって仲良くなれないかと思ったものの、結局何も起こらなかった、というか起こせなかった。花粉症的症状が酷く、社交へのフットワークが生理的欲求によって重くなる。要はローテンションだ。

グエル公園はたくさんのカップルで溢れていた。一人で歩いている者は少なく、このフォトジェニックな空間は互いに撮り合えるように複数人で訪れる場なのかもしれないと感じた。
青い壁の小さな建物に入る。細い階段を上る。上り切りそうなところで、目の前をとんでもない美人が通り、私を横目でチラッと見つめた。私はドキッとした。しかしその直後に、金色の長髪が似合うハンサムな男が同じように目の前を通過した。なんて美しいカップルなのだろうか。心底羨ましく、また惨めであった。他にもたくさんのカップルや子供たちがいた。
何をしたいのか分からない一人旅。孤独感、無力感、どこに向かえばいいのか分からない。寂寥と羨望と焦燥が私を襲った。

この公園の頂上のような場所に来た。人はそう多くはなく、喧噪よりは静けさが勝っている。一気にエントランスへと真っ直ぐ下る長い石の階段に差し掛かったところで、非スペイン語圏からのカップルに話しかけて、写真を撮ってもらった。そのあと、その人たちの写真もたくさん撮ってあげた。こんなささやかな交流ですら、私の心を幾分か晴れやかにするには充分であった。

美しい景色

グエル公園の上の方から、バルセロナの街並みを何度か眺めた。

子供の頃は、素敵な景色を見たとき、その美しさをシンプルに受け取っていた。何かを考えるなんてことはしなかっただろう。

しかし今は、この景色を前に何を感じればいいのだろうと考えている。大人になって、変に利口になって、その結果、何もかも難しく考えるようになってしまったのかもしれない。

旅への欲求

来月に大学を卒業して何年間か働いたらドロップアウトして世界を放浪したいと考えていた。しかし、この旅を始めてすぐに、そうしたいという思いは薄れていった。

それはまだ旅が充実していないからでもあると思うが、今は特に「何かにチャレンジしたい」「積み重ねの結果によってこそ可能な何かに到達したい」という思いが強いからでもあるだろう。もしかしたら働いてから何年か経てばまた旅に出たいと思っているかもしれないけれど。

だが、旅に期待してはいけない。自分で掴み取ろうとしなければ、意外にも何も得られることはない。

2月11日

日本人の集団

サグラダファミリアを再訪し、屋内にも入り、音声ガイドを聞くのが面倒になってただ歩き回っては写真を撮るなどしてから外に出た。近くにあったツーリストインフォメーションの小さなボックスの人に話しかけて、この近くで何か見る価値のあるものはないかと尋ねた。(随分と主観に左右される良くない質問である)

そこで教えてくれた、元は病院として使用されていたという世界遺産の建築を紹介された。存在は既に知っていて、そこまで関心を抱いていなかったが、すぐにホステルに帰るのも早すぎる気がしたので、歩行者用の大通りを真っ直ぐ歩いて向かうことにした。

その建物の少し手前、10人以上の若いアジア系集団が長いテーブルを囲んで食事をしているのが目に入った。そのときは「韓国人かな」という印象を抱く程度であった。そして道路を渡って建物のエントランスまで入ったところで、たとえ無料であったとしてもそこまで見たいとは思わない自分がいたので、すぐに引き返してまた同じ道を引き返した。

大通りの脇にレストランがいくつかあり、外側に張り出されたメニューに目を遣っていると、従業員のおじさんが英語で話しかけてきた。スペイン語で対応すると、どこから来たのかと尋ねられ、日本だと答えると、「向こうで食べている人たちも日本人だよ」と教えてくれた。先ほどのアジア系集団だ。「いや、彼らは韓国人だと思うよ」と返すと、「東京から来たと言っていたよ」と言われ、彼らのもとへ案内された。少し会話を交わしてみると、彼らは確かに日本人で、明治大学や立教大学の1-2年生。バルセロナ大学に短期留学に来ているようだ。可愛らしい子が何人かいた。

その近くのテーブルに座り、ラザニアなどを一人で食べた。旅の初期にありがちな孤独感の中にいた私は携帯を弄りながら、「彼らに混ぜてもらえばよかったな」と思った。いきなり混ざるのも何だか顰蹙を買いそうで、咄嗟にその選択が思い浮かばなかった。最初の会話で距離を縮める社交性、咄嗟に提案をする瞬発力、これらの欠如を痛感した。

食べ終わり、会計を済ませ、彼らより先に席を立った。先ほど少し話した可愛らしい女の子が笑顔で会釈をしてくれた。彼らを背に歩きながら、激しく後悔した。短期留学しているのなら、バルセロナに関する情報を色々と得られただろうし、スペイン語圏への留学(私はその1年ほど前、南米コロンビアに1年間留学していた)という共通点で盛り上がったかもしれないし、思いも寄らないところで繋がるかもしれなかったというのに、何をクールぶっているのだろうか、何を恥ずかしがって心を閉ざしてしまっているのだろうか。

「旅の恥はかき捨て」という言葉があったと思う。その通りだ。そこで恥をかいても一瞬の恥に過ぎない。一生の恥になることなんてまずない。恥を捨てろ!

そう思いながら大通りに戻り、彼らから向かってサグラダファミリア側にあったベンチに腰掛けて、携帯を弄った。他に脇道もなさそうであるし、100mは離れている彼らが病院側ではなくこちら側に向かってやってくる確率は単純に2分の1だ。

しばらくすると、日本語の会話が近付いてきた。女の子と会釈を交わす。しかし彼らは立ち止まらない。彼らはそこから少し進んだところで立ち止まり、何やら話している。私がベンチから腰を上げて彼らのもとへ向かうのに、驚くほどに勇気も決意も要らなかった。

「これからバルセロナ大学に行くんですか?」と尋ねる。大学は先ほど終わり、今から観光するのだという。行き先を尋ねると「カタルーニャ広場」などと言うので、「あ、行きたいと思っていたところだ」などと話を合わせて、混ぜてもらうことにした。

しかし結局、その集団のほとんどが宿題などをしにホームステイ先に帰るようだったので、サッカー好きの男子2人(明治大学の1年生だった)とともにサグラダファミリアに向かうことになった。5歳下の野郎2人であっても、孤独感や疎外感を抱いていた私にとっては有り難い繋がりだった。

そうして彼らとともにサグラダファミリアの周りをグルッと歩き、FCバルセロナのショップを訪れ、スペイン語学習や長期留学などについて話してから地下鉄の入り口で別れた。彼らがバルセロナに着いたのは2日前らしく、この2人が参加した主な動機はサッカー観戦だったようだ。2人と話していると、本当にサッカーが大好きなんだな、と感じさせられた。

こうして些細な交流でエネルギーをもらった私はバルセロナ大学(メインキャンパスではないためかなり小さいが、その建物は世界遺産的な扱いらしく、美しいものであった)を訪問したのち、地下鉄でホステルに帰った。心はより晴れやかになっていた。

こんな調子で、目の前の機会を見逃さず、その機会からさらに機会を拡げていこう、もっとオープンに楽しんでいこうー。改めてそんな気持ちにさせられた出来事であった。

意味のある言語化

言語化にはある程度時間をかけるべきだ。言語化したいことが多かろうが少なかろうが、一つのテーマ毎に、一定以上の時間をかけるべきだ。雑に振り返っても、表層をさらうだけであまり意味がない。

しっくりくる言葉を使っているか、実情から浮いてはいないか、自分に嘘をついていないか。立ち止まってじっくりと考えることによってこそ、意味のある言語化となる。

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