東南アジア最大級のスラム・スモーキーマウンテンの頂上で泊めてもらった話

旅/紀行


大学時代、南米で知り合ったある男性が関わる会社から映像制作の依頼を受けてフィリピンに滞在していた2019年8月上旬のこと。地方での撮影を終えて首都マニラで翌日の帰国を控えていた私は、トンド地区を歩いていた。

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Smoky Mountain Rubbish Dump, Phnom Penh | Nigel Dickinson

マニラ北西部に位置するトンドは、かつては海岸線に面した一漁村であったが、1954年になると、焼却されないゴミの投棄場となる。
以来、マニラ市内(マニラ首都圏)で出たごみが大量に運び込まれるようになり、ゴミの中から廃品回収を行い僅かな日銭を稼ぐ貧民が住み着き、急速にスラム化。

1980年代後半頃からフィリピンの貧困の象徴として扱われるようになったことを受けて、政府は国のイメージが損なわれることを理由に閉鎖。
住民は公共住宅をあてがわれ強制退去させられたが、一部の住民はマニラ郊外のパヤタス・ダンプサイト(スモーキー・バレー)をはじめとする別の処分場周辺に移り住み、従来通りの生活を続けた。
パヤタスでは2000年にゴミが崩落して数百人が死亡する事故が起きたが、現在も運用されている。

そんなトンド地区の中にあるゴミでできた山・スモーキーマウンテンは、現在は草木が茂る丘のような状態であって、ゴミの集積所ではないのだが、トンド地区は今でもゴミが集まるスラム街であり、貧しい人が多く生活している。

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LIFE AFTER SMOKEY MOUNTAIN

小学生の頃だったか、パヤタスの状況を描いたドキュメンタリー映像を観て関心を抱いた私は、フィリピン行きが決まったときに、パヤタスを訪問しようと思い付いた。
しかし、フィリピン滞在における自由時間が短かったこと、パヤタスはアクセスが悪く、入場には正式な許可がいることなどから、トンド地区に行くことにしたのであった。

早速登り口を見つけ、慣れた足取りを意識して登り始めた。

ある程度は草木で覆われているが、確かにゴミが足元に散らばっている。前日に歩いた商店街系のエリアとは、同じ地区とはいえ雰囲気がまるで違う。

低い山、というより丘のような高さであり、いくつものバラックに挟まれた通路を抜ければ、頂上にはすぐに辿り着いた。

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10歳未満くらいの子供たちが5~6人で遊んでいる。
その先にはさらにいくつものバラックがあった。
これ以上先には進めなさそうだなと思い、もと来た道を歩き出した。

そのとき、彼女らの1人がこちらに向かって高い声でHey!と呼びかけてきた。
私は振り向き、とりあえず彼女らのもとに引き返してみることにした。

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※この写真はイメージです
Loving Street Children PH-Asia: Livelihood and Education Support initiative for the Upper Smokey Mountain community in Tondo, Philippines | Charity Crowdfunding Page with GoGetFunding

挨拶を交わす。皆、健康的な印象を受けた。
彼女らが何を言っているのかはよく分からない。公用語に英語が含まれるフィリピンと言えども、彼女らはほとんど喋れないようだ。

誰かが地面のコンクリートに白いチョークで何やら文字を書き始めた。
皆笑っている。もしかしてコケにされてる?と若干感じたが、私はそのチョークを手に取り、そこにいた小さな男の子の顔を描くと言った。

皆、私の手元を、静かに、興味津々に見つめている。男の子は若干不安そうな表情だ。
5分とかからず描き終えた頃にはアイスブレークは済んでいたようで、私に触れてくる子も現れた。

ゲームをしようと誰かが言い出した。要は鬼ごっこだった。
だが、よく分からなかったのは、しゃがんでいる人にはタッチできないという理不尽ルール。
四方八方に逃げていく彼女らを、時には緩く、時にはガチで追いかけ回し、集中狙いの手を華麗にギリギリでかわした。

次第におんぶに抱っこをせがまれるようになり、背負った状態で走ったり抱っこして遊園地のアトラクションのような動きをつけたりすると、皆興奮し、私の取り合いになった。
特に小さい3人の男の子たちは何度も抱っこやおんぶをせがんできた。私はまるで父親になったかのような気分だった。

そうやって遊んでいると、お腹が空いているかと誰かが尋ねてきた。
その子は妊娠している母親に相談しにいき、7ペソ(≓14円)で砂糖のついたパンのようなお菓子と水をくれた。
どこにいても色々と疑い深い私は、毒でも盛られてハメられるんじゃないかと思い慎重に飲み食いしたが、味からして問題なさそうだった。

7ペソに対して10ペソを渡し、お釣りは要らないよという仕草を見せると、彼女はNoと言ってしっかり3ペソを返してきた。誠実なんだなと感じた。お金の大切さを分かっているからこその行動なのかもしれない。


貫禄のある高齢の女性がこちらに向かってゆっくり歩いてくる。挨拶を交わす。
彼女は200人以上が住むスモーキーマウンテンコミュニティのボスらしく、50年近くここに住んでいるという。

彼女はある程度英語を話すことができた。

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※写真はイメージです
Banaue, Philippines – January 24, 2014:5728238 | Shutterstock

そのボスに、バラックの密集する方へと招かれた。そこには、彼女の夫を含む他の大人たちもいた。
お腹が空いているかと尋ねられ、お言葉に甘え、鶏肉とライスをいただいた。

日は沈んでゆき、空が赤らんでいる。
ここの住人ではない彼らの友達という声の低い女性や、その連れのプロレスでもやっていそうな体格のゲイっぽい人など、新たに何人かがやってきた。
近くでは、10代中盤から後半くらいの男の子たちが6~7人くらいで携帯で映画を観ている。

私は英語とスペイン語(タガログ語に似ている)を使って会話した。地方で映像制作の仕事をしていたなどと自己紹介をした。彼らも全体的に英語はあまり分からないようであった。
彼らの言葉がよく分からなくても、とりあえずニコニコして過ごした。南米留学初期を思い出す。

ボスの娘である13歳の女の子は、過去に滞在していた日本人に教えてもらったのか、ノートに日本語の挨拶などを書き留めており、いくつかのフレーズを私に向かって喋った。
その2歳上の姉は、とてもここに住んでいるとは思えない、小麦色の肌をした健康的な美少女だったことが印象に残っている。

なおフィリピン人のうち、スペイン系の血が入っている人は、彼らが言うには全体の20%ほどらしい。ペルー系に似ている人が多いと感じた。
その女の子たち2人は携帯を持っておりFacebookで繋がったが、過去の投稿や写真を見る感じ、とても貧しいとは思えなかった。
スラムの代名詞であるスモーキーマウンテンだが、ここに住んでいるからと言って非常に貧しいとは限らないようだ。

ジンとパイナップル系粉末を混ぜたお酒を回し飲みした。貰ってばかりでは悪いので2本目は私が購入した。山の上に、個人がやっているいくつかの小さな売店があるのだ。
電線はちゃんと下から引かれている。水はホースで地上から汲み取っているらしい。当然かもしれないが、ここでもちゃんと経済が成り立っていた。

どこに泊まっているのかと尋ねられたが、お金を持っていると思われたくなかったのでトンド地区の安いホステルと答えておいた。
今夜は泊まっていってもいいと言われたので、お言葉に甘えて泊まっていくことにした。

ここに滞在していった日本人はこれで3人目になると誰かが言った。4月にタカシというブロガー、7月にアキヤというカメラマンが来たのだという。奇しくも今年だけだという。
他の外国人は?と尋ねると、フランス人女性がドキュメンタリー制作のために半年ほど滞在していたことがあると言っていた。脇の匂いが凄まじかったらしい。

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トランスジェンダーっぽい感じのロン毛の人のバラックの中で、22時半頃に就寝した。板の上に薄いシーツを敷いたような状態。背中が痛くなる。

なんとか寝付いたものの、1時過ぎに目が覚めた。ロン毛の人の身体が一部密着している。
寝始めは付いていた扇風機がなくなっている。バラック内の別のスペースに持っていかれたようだ。蒸し暑く、寝心地が悪い。

ホテルに帰ろうと思いバラックを出るも、まもなく犬たちに囲まれて吠えられまくった。
グアテマラの田舎で深夜に野犬に囲まれたときは石を拾っていつでも投げつけられるようにしながらジリジリと歩いたが、ここに住む人たちと一緒に住む犬たちとなれば、対抗して攻撃するのはもちろん憚られた。しかし向こうも割とビビっていたので、そこまで心配ではなかった。

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犬たちの包囲から逃れてさらに進むと、下山ルートが柵で塞がれていた。

声の低い女性が「夜はあまり歩かない方がいい。理由は色々あって説明しにくいけど」と言っていたことを思い出す。

ゾーンごとにナワバリ的なものがあるのかもしれない。何とか柵を超えたとしても、そのゾーンにも犬がいればまた吠えられることになり、起きてきた住人に見つかって不審者扱いされるのは目に見えている。帰るのは諦めて、再び犬に吠えられまくりながらバラックに戻った。

ロン毛の人にスペースを占領されていたので彼/彼女の足元で丸くなっていたが、しばらくしてその横で寝ていた人の寝相の悪さで起きた彼/彼女がスペースを空けてくれたので、無事就寝することができた。


7時過ぎに目が覚める。
コンタクトレンズをつけたまま寝ていたので目やにが酷く、視界が白みがかっている。
外から昨日の子供たちの声がする。名前を呼ばれる。若干心配そうな様子。遊んでほしそうだった。

ロン毛の人に促され、パンとコーヒーを朝食とした。
子どもたちの一部はすでに学校に出かけていた。皆ちゃんと学校に通っているようだ。ガチの貧困地域ならそんなこともできずにゴミ拾いなどの労働に朝から晩まで従事しているらしい(それで日給数百円レベルだったりする)。

30年くらい前に日本のフィリピンパブで働いていたという、若い頃は綺麗だったであろう50代後半くらいの女性を紹介された。
カタコトの日本語を操っていた。関西や東北などを転々として働いていたらしい。
また日本に行きたいと切なそうに話す彼女はどんな人生を歩んできたのだろうかと思いを馳せた。

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偽装結婚してまで日本に来るフィリピンパブ嬢の悲しい現実

ここでの滞在全般に関して言えるが、あまり突っ込んだ質問はできなかった。
しばらく一緒に過ごして信頼関係を築かないことにはやはり憚られる。

次はいつ来るの?と尋ねられた。いつでもウェルカムだよと言ってくれた。またいずれここを訪ねたい。

しばらくそこで過ごして、別れを告げて下山した。
それからまた、トンド地区を歩く。

スモーキーマウンテンはかつてとは大きく姿を変えた。それでもトンド地区自体の貧困は根強く残っている。東南アジア最大のスラム街と言われるだけのことはあり、建物はボロボロ、ゴミだらけで、路上脇にはバラックが並ぶ。交通量が凄まじく、身体障害者(四肢欠損など)が数多く視界に入った。この地域では臓器売買もあるという。それでも何だかんだ、一つの生活の在り方として成り立っているようだった。

ホテルに戻り、シャワーを浴びて荷造りを済ませ、タクシーで空港に向かった。

2019.08

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