真のロマンチストはディズニーランドでイチャつかない

愛/恋愛

自分で言うのもなんだが、私はロマンチストだ。

例えばコロナの影響で出逢いがない時期でも、Tinderなどの出会い系アプリを使いたいとは思わない。

なぜなら、出逢い方・ストーリーも重要だからだ。作為的なプラットフォーム上でシステムに則って出逢うのではなく、日常の延長線上の自然な形でないとどうも違和感がある。そういう感覚は、今の10代の人たちには理解されがたくなりつつあるかもしれない。
【コロナ禍】フランスで出会い系サイトやアプリの利用者が増加 外出制限下の恋愛事情

 

それはさておき、もちろん皆、多かれ少なかれロマンチストなところはあると思っている。

ただ何事も程度の問題であって、グラデーションの世界に過ぎない。ロマンチストとはどんな人かというのも人それぞれだろう。

   

ところで、ロマンチックな光景といえばどんなものが思い浮かぶだろうか。

水平線に沈む夕陽を肩を寄せながら眺めるだとか、大都会の夜景をバックにプロポーズするだとか、はたまた旅路での思いがけないひとときのロマンスだとか、色々あるだろう。

 

ではクリスマスというイベントに対してどんな印象を抱いているだろうか。

ケーキ、プレゼント、サンタクロース、キリスト教、家族と過ごす日、恋人のいない友達と過ごす日、期末試験の日—。

もしあなたが「恋人と過ごす日」と反射的にイメージしたのなら、あなたのPCR検査(Purity Check of Romanticism)は陰性もしくは疑似陽性である可能性が高い。

いや「恋人と過ごす日」という捉え方こそロマンチックだろうと思う人、まあ続きを読んでみてほしい。

   

毎年、成人式会場で暴れる新成人が全国各地で報道されている。(私の成人式では会場で死者が出た)

反抗の対象である大人たちが用意した、それも出席義務のない成人式に律儀に出てきてまで暴れるというのは、無粋の権化と言っても過言ではないだろう。

真のアウトロー(outlaw)なら、わざわざローのあるところに行かない。気に食わないローに閉じ込められるから仕方なくアウトしようとするだけだ。

一方で、アウトするためにローのあるところにわざわざ足を運ぶのは、ローをアウトすることが目的化している――つまりただ暴れたいだけだ。

尾崎豊が夜の校舎で窓ガラスを壊してまわった*のは、ローの中で違和感を抱えたからであって、アウトするためにそこに身を置いていたわけではないだろう。
*実際は割っていないとも言われている。「尾崎豊さんは割らなかった…繁美夫人証言」nikkansports.com

   

「クリスマスは恋人と過ごす日」という暗黙知のもとに皆が揃いも揃ってロマンチック的行為に励んだり心地に浸ったりするという構図は、それと少し似ている。

何も私はクリスマスに休みを取ってイチャつく世のカップルたちを妬んでいるわけではない。

ただ言いたいのは――恋人たちはロマンチックな心地で素敵な時間を過ごしているつもりなのかもしれないが、集団でそれを実践している時点で、全体的に「非ロマンチック的行為」になってしまっているということだ。

前提として、ロマンスというものは俗世間的ではあってはならない。計画されたものであってはならない。

高い偶発性と独立性、自然発生的で俗世離れした世界観である必要があるのだ。
型にハマッていたり無理に演出されたり大衆迎合的であったりした時点で、ロマンチック性は崩壊する。

 

もちろん、個々のカップルたちからすればクリスマスはロマンチック性の高いイベントとして完結するかもしれない。

問題なのは、「恋人と過ごす」というロマンチック要素の高い行為を集団で行なうことによって、「全体像としての」ロマンチック性が損なわれてしまっているということである。

そしてその事実は個々のロマンチック的行為をも客観的に陳腐化させる。

ただし、同じ年間行事でも「正月は家族と過ごす日」「春分は豆を撒く日」「七夕は短冊を吊るす日」「十五夜はお餅を食べる日」「冬至は柚子風呂に入る日」などは話が別だ。そうしたイベントにはもともとロマンチック性がほとんどないからである。

ロマンチック性が高そうなイベントとしては他にバレンタインデーやホワイトデーがあるが、日本における近年のそれは友チョコや義理チョコの主流化によって「恋愛イベント感」が薄まったことにより、クリスマスほどの滑稽さや無粋さは個人的には感じられない。また結婚記念日や誕生日は人それぞれバラバラなので集団性が低く、ロマンチック性は損なわれない。

   

一つ分かりやすそうな例を提示しよう。

クリスマスのディズニーランドらしい

かのディズニーランドのシンデレラ城の前で数多のカップルが一斉にイチャつく図である。

彼らは確かに夢の世界を満喫してロマンチックな気持ちに浸っているのだろう。
しかしこれを客観的に見たときに感じられるのは、ロマンスよりも滑稽さではないだろうか。

期待通りのロマンチック的行為を、用意された箱の中で周りと同調して一斉に実行する――。

そこには偶発性も独立性もなく、あるのはただ俗的で滑稽で無粋な痛々しさばかりである。これはシンデレラ城に限った話ではない。ディズニーランドそのものがそういう空間であると感じている。だからUSJの方が好きだ。

こちらの写真は京都・鴨川の河川敷の様子である。多くのカップルがパーソナルスペースを自ずと意識した結果、座る位置が等間隔になっており、「等間隔カップル」と呼ばれている。
カップルが集うthe・デートスポットという意味で、こちらも先程のディズニーランドと同じことが言える。

   

ここまで読んでくれた方は「めんどくさっ」「ひねくれすぎ」「歪んでる」などという感想を抱いたかもしれない。私にとって良いことではないが、否定はしない。

それよりも、私はこの記事を通して他にもリスクを冒している。

なぜなら「ロマンチック的行為」について語ること自体が「ロマンチック性に欠ける行為」だからである。

冒頭で自称ロマンチストと述べておきながらこの自己矛盾に気付いたこのあたりで、今回はキーボードを離れるとしよう。

2020.05.14

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