毎回人間関係に信用を求めにいかなくてもいいんじゃね?的な話

人間関係

たとえ仲良くてよく遊ぶ相手でも「いざとなればコイツは裏切りそうだな」とか、逆にたとえ会う頻度は少なくとも「どんな局面でもアイツは変わらないだろうな」とか、ある程度接していれば多少なりとも分かってくるものだ。

しかし、そんな仮定が意味を帯びるような危機的状況は現実には滅多に起こらない。だから考えても仕方ない。従って、その無意味で非現実的な仮定によって関係性を見直すなんて風情と余裕のないことをする必要はない。

学生時代、都内の家賃コミコミ3万のボロいシェアハウスに住んでいたとき、人材紹介業などで月収1000万円以上あるルームメイトがいた。なんでわざわざこんなところに住むんだろうと不思議に思ったものだったが、それ以上に変な奴だなと思ったのは、彼がLINEのタイムラインやFacebookに札束の写真を何度も投下して稼ぎまくっているアピールをしていたことだった。

本人投稿より(一部加工しています)

そういう投稿は周りからあまりよく思われないんじゃない?と聞いてみたことがあったが、彼は「信用できない人間を炙り出しているんだ」などと言っていた。
確かに、もしそこでカネ目当てに不自然に近付いてくる奴がいれば、その人間の評価を変えることはできるかもしれない。しかし、本来彼と良好な関係を築けたはずの人間から、胡散臭い奴だとかイタい奴だなどと思われてしまうリスクは依然として存在しつづける。
「自分の全てを受け容れてくれる人」はいるかもしれない。しかしそれは全体からすればマイノリティだ。そのマイノリティとだけ付き合っていく人生に価値を感じるのであればそれでもいいかもしれない。しかし、「自分をある程度受け容れてくれる人」「自分の一部を受け容れてくれる人」と一定の関係を維持することに、本当に価値はないと言えるだろうか。最近彼のことを思い出し、ふとそんなことを思った。

人間に潔白を求めることなど筋違いだが、相手の利己的な凶悪性が露呈した時点で、今後信用するのは難しい。しかし、だからといって関係を続けるという選択を盲目的に消滅させなくてもいい。信用できる人としか関係を築かないのは安全かもしれないが、信用なんてなくても成り立つ関係はたくさんあるわけで、色んなタイプの人間関係を楽しめばいいのではないかと思う。信用第一などとはよく言うが、(場面によるとはいえ)いつもそこに固執するのもどうなのだろう。

もし相手がいざとなれば裏切ってくるような人間であるならば、ただ運命共同体にならなければいいだけの話だ。関わる程度と局面さえ間違えなければハッピーな関係を築けるのなら、それでいいじゃないか。

私の周りには「コイツは家には上げたくないな」と感じさせてくるタイプの割と近しい人間が何人かいる。モノを盗みそうだとか、単純に生理的に得意じゃないとか、理由は様々だ。しかしだからといって存在そのものを拒絶するかといえばそうではない。多くは距離感の問題であり、ゼロかヒャクかではない。

たとえ凶悪犯罪者でもそれは同じだ。凶悪性を抱えつつもそれを封じ込めることができる人であれば基本的には問題ない。もちろん、特殊な状況下でそれが解放されることはあるだろうが、そんな状況に一緒に身を置くことになる可能性が低いのであれば考慮の必要性は薄い。(ただ長期的に一緒に何かをするのは難しいかもしれない)

極論、金も飯も稼ぐアテも頼る先もなくなれば、今”真っ当”で余裕のある生活を送っていても多くの人は窃盗などの犯罪に走るだろう。しかしそのような状況に転じる可能性は低い。だからその仮定はその人間の現実的評価に影響を及ぼさない。それと同じだ。

というわけで、信用のない人間関係も含めて楽しもう。ただし火傷には気をつけよう。

2021/12?

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