人に優しくなれる「20000分の19999」の発想

人間関係

前をゆっくり歩いている人を見て苛立つ人がいる。
歩いていて肩がぶつかっていがみ合う人がいる。

街中で目が合ってガンを飛ばし合う人がいる。
人の持ち物をひったくって逃げる人がいる。

路上で苦しんでいる人を見て見ぬ振りをする人がいる。
電車内で見知らぬ女性の身体を触る人がいる。

知らない人の家に押し入って金品を奪う人がいる。
面識のない人を無差別に殺す人がいる。

世界には70億人以上の人間がいる。
日本には今、1億2700万人ほどの人間がいる。

一生のうちに知り合いになる人は、平均して30000人程度であるとよく言われる。
仮に、そのうち好感を抱ける相手は3分の1、10000人とする。
あなたが2018年現在で20歳で、80歳が寿命だとして、ずっと日本にいるとする。

1998年時点での日本の人口が今と大差ないことと、日本で80年の間に平均して毎年80万人の子供が生まれるとして、80年間の日本人の延べ人口は1億2700万人+6400万人=2億人弱。

外国人を考慮に入れないという強引な計算でいくと、一生のうちに日本という空間を共有する人間は2億人程度ということになる。

 つまり、その値を分母としたとき、一生のうちに知り合って、かつ好感を抱くことのできる人の割合は、「80年間の日本の延べ人口2億」分の「1万」=20000分の1程度ということになる。

よって、今あなたの周りにいて関わりがある人間の多くは、その希少な20000分の1側の人間ということになる。(全体における好感を抱ける確率が3分の1だとしても、好感を抱けない対象とは自ずと距離を置くことになるので、今関わりがある人間の過半数は好感を抱ける対象である…はず)

最初に挙げたような例の場合、あなたが負の感情を抱いている相手、ためらいなく傷つけようとしている相手は、今のあなたにとっては20000分の19999側のどうでもいい人間かもしれない。

しかし、そもそもその人たちの本質は、20000分の1側の人間と何ら変わりない可能性が高いのだ。
街ですれ違っただけのあの人も、車の窓から見えるあの人も、肩がぶつかったあの人も、皆すべて。

だから、当然その人たちには20000分の1の人たちと同じように、その人自身が歩んできた人生があり、様々な人間関係の文脈の中で、喜怒哀楽を感じながら日々を生きている。

あなたが見たその人の側面は「ただのムカつく中年男性」でも、子や孫としての側面はもちろん、さらには父親や旦那としての側面だってあるかもしれない。

全ては、以前たまたま知り合ったことがあるかどうかの違いでしかない。

あなたにとって当たり前な存在である20000分の1側の人間は、あのとき出逢っていなければ20000分の19999。
そして、あなたにとってどうでもいい存在である20000分の19999側の人間は、以前どこかで出逢っていれば20000分の1かもしれないし、今すぐにでも20000分の1になる可能性を秘めている。

そう考えると、知らない人だからと言って簡単に見切ったり見捨てたり傷つけたりすることが、いかに愚かしいことであるかが分かる。

もちろん、限界はある。

親友と見知らぬ人を目の前に並べられて、どちらかを殺すしかないという状況になれば、誰もが後者を殺すことになるだろう。
しかし、そんな究極的な話はあまりに非日常的で、ナンセンスだ。

別に、だからといって地球の裏側の見知らぬ恵まれない子供たちに手を差し伸べなければならないというわけではない。
自分の身の周りだけで十分だ。

それでも、皆がそうやって少し想像力を働かせれば、そして相手の他の文脈を想像することができれば、もっと心優しいより生きやすい世の中になるに違いない。

なんてのは理想的すぎるだろうか。

2016.12

P.S. 世界を基準にして「100云十億分の3万」にしてもいい。

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