嫌なことがあったときに考えること

価値観

一人旅でスペインに滞在していたとき、遠く離れた北の町への電車の切符を買った。

しかし色々あって、ギリギリのところで乗ることができなかった。

残念な気持ちになった。そして代わりに遠く離れた西の町に向かうことに決めた。

その日、同じ目的地に向かう人にマイカーの座席をシェアしてもらえるサービスの存在を、宿で知り合った人に教えてもらった。すぐに予約し、承諾され、オンライン決済をした。

翌朝、出発時間が迫っても、乗せてくれるはずの人から連絡が返ってこない。無断キャンセルされてしまったのだ。またしても落胆せざるを得なかった。

その日の午後、私はスーツケースを引いて、港に向かっていた。途中にあった文房具屋で買った画用紙とともに。

港に着いたあと、マジックペンでいくつかの町の名前を記したその画用紙を掲げて、すぐそばにある高速道路へと繋がる道の脇に立った。

スペインはヒッチハイクが比較的難しい国といわれている。もし1時間経っても誰にも乗せてもらえなければ、港で離島行きのフェリーの切符を買おうと思っていた。

それから1時間ほど経って、息子を学校まで送り届けた帰りだというおじさんが車を停めて、助手席に乗せてくれた。

そこから何台かの車を乗り継いで、マクドナルドの遊具の中で震えながら凍える夜を乗り越え、訪れるはずのなかった町に恋して何日か過ごし、素敵な人たちと出逢い語らった。

これまでも国内外で何度かヒッチハイクをしてきたが、その多くは必要に駆られてのことではなかった。

じゃあどんなときにしていたのかというと、大抵は何かを失ったときだった。

大学の同期たちと参加した免許合宿で仮免試験で二度脱輪して不合格となり、大部屋で一人だけ延泊した翌日の昼下がり。

東京から地元のある関西に向かう夜行バスに乗ろうとして、荷物がサイズオーバーだからと乗車を拒否されて八重洲口に立ちすくんだ真夜中。

とあるモロッコ人に騙されたことがキッカケで、サハラ砂漠から遠くの町へと向かうバスに乗れなくなった日の茹だるような夕方。

電車や他のバスだって、待てば、探せばあっただろう。

それでも、ただ移動するという目的を超えて、私は路上脇に立って車を待っていた。

 

いつどんな人が乗せてくれるか、途中のどこで降りることになるか、すべては偶然だ。

私にとってヒッチハイクは、たまたま乗せてくれた人と予測不能のコミュニケーションを交わし、たまたま降ろしてくれた”訪れるはずのなかった町”を歩き、その偶然の諸々に感謝するという物語を紡ぐための手段・賭けでもあった。

「成功するまでやれば失敗なんて存在しない」とはよく言うが、人生においても同じことが言える。正解にできれば不正解なんてない。

歩んできた過去が、選んできた道のりが、失敗の過程だと、敗者のストーリーだと思えるとき。

コトの大小を問わず、失ってしまったものを嘆いたり、無駄足を踏んだことを悔やんだりするだろう。

そんなときは、その道のりに少しでもプラスの意味を持たせるための、何かしらの変化を起こせる可能性はきっとあるかもしれない。

最初に嫌な目に遭ってよかった、失敗してよかったとすら思えるようになるかもしれない。

そんな風に振り返ることができている現実的な世界線を想像してみる。

それができたなら、あとはその想像をこの世界線で再現してみるだけだ。

2020.04.29

 

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