例えば「人の不幸をなくす」という目的を定めたとき、その手段は例えば以下のようにいくつか考えられる。
- A:新しい命が生まれないようにして、種として緩やかに死滅していく
- B:人類全員が一生圧倒的な快楽感に包まれるように働きかける
- C:地球ごと苦しむ暇もないほど一瞬で消す
ちょっとレイヤー感が雑だがそれには目を瞑ってもらうとして、ここでの手段Aは、反出生主義的発想であると言える。
反出生主義について
反出生主義とは、「自分は生まれてこないほうがよかった(誕生の否定)」+「人間は生まれない方が良いので生まない方がよい(出産の否定)」という考え。
生まれてきて良かった、生んでくれてありがとうと感じることができる人もいる一方で、生まれない方が良かったと感じる人もいる。
反出生主義とは「だったら、最初から何もない方が良くない?」的な考え方であり、「不幸な人々」側の理論であり、究極の平等主義とも言える。
人の不幸はその人の責任なのか? いや、遺伝や環境によって、本人の意思など関係なく不幸続きの人生を送る人もいる。だったら産む側に責任を見出そう、という思想だと理解している。一方的な作り手側として責任を感じるべき、という。つまりは、他責度合いが強い思想とも言える。
しかし「人を生んだらその中の誰かが不幸になるかもしれないから皆一切作らないべきだ」という反出生主義の基本的な理屈が通るのであれば、「車に乗ったら事故を起こして人を殺すことになるかもしれないから皆一切乗らないのが正義」や「SNSの利用を起因として自殺者が出るかもしれないから皆一切やらないのが正義」という理屈も同様に通ることになるはずだ。
ということは、究極的にはあらゆる能動的な働きかけは否定されることになる。だって人を不幸にしてしまったという責任が生じうるのだから。
さて、話を戻して、先程の手段Aという目的の手段としては、どんなものが考えられるだろうか。
- 全員に強制的に不妊手術を行う
- 全員に反出生主義の思想を植え付け、子供を産む意欲を削ぐ
- 大規模な公害を発生させるなどして正常な生殖能力を奪う
- 組織的に妊婦を襲い流産させまくる
なかなか野蛮な内容である。しかしこのとき、最初に掲げた最終目的が無視されているどころか、むしろ思い切り相反している。
本来の目的は案外見失われがち
以上はあくまで一例だが、これと同じようなこと―手段を重ねる中で本質を見失い、目的から外れた方向に進んでしまうこと―が、あらゆる場面で起きている。
- 幸せになるために稼ぎの良さそうな仕事に就くも精神的に疲弊し、プライベートが圧迫されて人間関係も希薄化し、それでもしがみつきつづけて病み、自ら命を絶つ。
- モテるためにダイエットを頑張りすぎてガリガリに痩せ細り、ますますモテなくなる。
- 良い大学に入って育ててくれた親を喜ばせたいという強い思いを胸に浪人しつづけ、10浪パラサイトシングルになり親を悲しませる。
- 節約するためにエアコン代をケチッていたら作業や睡眠の質が下がり、稼ぎが悪くなる。
- 我が子に社会的に成功して幸せを掴んでほしいからと徹底的に教育を施した結果、子供がノイローゼになり犯罪を起こす。
- 人々の幸福のためにあるはずの宗教だったのに、過激派と化して多くの人に苦痛を与える。
当初定めた目的を達成するための第一手段は合理的であったとしても、その手段を目的とする第二手段、さらにその次の第三手段になってくると、目的の本質からズレてしまっていた―そんなアホっぽい事態は案外珍しくなく、世界各地で日々悲劇が発生している。
例えば一つ目の例であれば、
- 目的:幸せに生きる
- 手段第一段:お金をたくさん稼ぐ
- 手段第二段:お金をたくさん稼げる仕事に就く
- 手段第三段:給与の高いA社で働く
このような図式を描いてしまった結果、手段第三段が目的化してしまい、本来の目的とは逆の結果になってしまったのかもしれない。
本来の目的を見失わないために
こういった事態を避けるためには、「①目的の細分化」と「②状況の俯瞰と自覚」が重要になってくる。
①については、この例の場合「幸せに生きる」という目的を細分化しておけば、話は違っただろう。仮に「幸せ」を「健康も人間関係も大切にしながら、お金をたくさん稼ぐ」と定義していれば、給与は高いが精神的に辛く余暇もないA社をサッサと辞めることができただろう。
②については、自分の状況を俯瞰する機会を時折設けるということだ。「今、これをしているのは何でなんだっけ?」「今の状況って本来の目的に適っているんだっけ?」などと自分に問いかけ、俯瞰する。そして、自分の行動の客観的な意義とは何かを見つめ直し、自覚を改める。
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