前提を疑い始めているなら黄色信号かもしれない

価値観

「前提を疑う」とググると、「成功するために必要なこと」などといった風に、すべからくポジティブな意味で語られている。(見出しを見る限りは)

確かに、前提を疑ってかかる姿勢は重要だ。
ただ言われたことを何も考えずにこなすのではなく、一度立ち止まって自分の行為の客観的な意味を捉えた方が、合理的に選択していくことができる。

なぜ合理性が大事なのかというと、資源(カネ・時間・エネルギー)が限られているからだ。

中学に入ったとき、英語の授業でアルファベットをページいっぱいに書くよう指示された。
しかし、本来の目的はアルファベットをちゃんと書けるようになることであって、ページをアルファベットで埋め尽くすことではない。
自分にはそこまで書く必要がないと判断すれば、別のことに資源を割けばいい。

ただし、前提を疑うことが良い意味で捉えられるのは、

「目的のために合理的な選択をしようとしている」

この場合のみにおいての話だ。

「そもそも、数学なんて何のためにやるんだ。指数関数なんて実生活で何の役にも立たないじゃないか」

「そもそも、なんで英語が出来るようになる必要があるんだ。俺は日本人だし日本から出るつもりはないから、やる必要はないだろう」

日々、いたるところで上のようなことが叫ばれている。
かくいう私も、油断すればそのようなことを考えることもある。

このように「そもそも」と言って前提となる構造を疑い始めたとき。
単に「できない」「やりたくない」という現実から逃避するために現状を批判して、自分や行動を正当化・合理化しようとしているだけかもしれない。

上の例の場合、もし数学や英語が満足に出来るのなら、そんなことは考えない。
できないから、そしてできるようになるために労力をかけたくないから「できなくてもいい」と自分を正当化しようとする。

自分がやりたくて始めたことであれ、指示されてこなしていることであれ、前提となる構造を疑い始めている自分に気付いたときは、

「自分は単に逃げているだけではないだろうか」 

と自問してみる。

その結果「弱い自分」を自覚したときは、まずはそれを受け容れる。
その上で、続けることで得られる価値に焦点を当てて考えてから、やるかやらないか、決めればいい。

何らかの理由により「やる」と決断したら、もうあれこれ考えない。あとはやるだけ。

例に戻ると、数学や英語ができることが自分にとってどのような意味を持つのかを考える。
何らかの理由で大学に入学したくて、そのために数学や英語が必要であれば、学力向上および内申点確保のために、しっかり勉強するのが合理的だ。

ただし、「合理的でない」と判断すれば簡単に放棄していいというわけではない。
「合理的かどうか」の基準は、”今”の価値観に過ぎないからだ。

「海外なんて興味ないから英語を勉強する必要なんてない」と真剣に考えて英語を放棄した人が、のちに海外に興味を抱いて「英語を勉強しておけば良かった」と後悔することだってある。

だから、あとになってなるべく後悔しないためにも、前提を疑った結果何かを放棄する前に、誰か複数人、できれば異なるタイプの人間に自分の意見をぶつけてみたり、本やネットで調べまくったりするのがいいだろう。

同じようなことを考えて悩んでいる人はたくさんいる。
それらを参考に、また自分で考える。

実例を挙げると、私は一度、大学受験で失敗している。
浪人生活開始早々、面倒な勉強からの逃避というカタチで「そもそもなぜ大学に行くのか」について考えはじめた。
もし勉強が文句なく出来たなら、そんなことは考えなかっただろう。

自分であれこれ考えて、人ともあれこれ話して、本やネットで色々調べて、自分にとって大学に進学する意義を明確に言語化し、改めて大学に行くことに決めた。
その際は、海外ではなく日本の大学である必要性も検討した。(かなり雑なものではあったが)

ただ、情報収集にはキリがない。
頭の中であらゆる可能性を模索しているだけでは、何もできないまま人生が終わる。
色んなものを参考にしながら考えた結果、納得のいく答えが見つかれば続ければいいし、なかなか見つからなければ「そういうもんだ」と思い切って捨てたっていい。

それも人生だ、と私は思う。

2016.?

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