宗教は信じるためのものではない

価値観

宗教は悪くない

大学入学以来、宗教を勧められることが多い。キリスト教、仏教、新興宗教など様々だ。

勧誘をいきなり拒否することはない。無視もしない。
時間があるときは耳を傾けてきた。

日本においては宗教に対して悪いイメージが抱かれがちだが、宗教とは基本的に平和的な存在だ。
多くの場合、世の大多数が「道徳的に良い」と感じることを教えとして発信していると思う。

でなければ世界の多くの人々の間で宗教というものが支持されることはないだろう。
「宗教で救われた」という人は多いし、それはそれで良いと思っている。
問題なのは、それを私利のためなどに歪曲して利用する人間であることは言うまでもない。

私に特定の宗教は要らない

2018年1月、渋谷駅前で人生相談を実施したところ、幸福の科学の信者に「あなたにとって宗教は必要ですか?」と尋ねられ、「少なくとも自分には特定の宗教・信仰は要らない」と答えた。

宗教観とはちょっと違うが、「細胞は宇宙に似ているし、人体は人間社会に似ているので、全て循環しているんじゃないか」などという宇宙観も抱いている。
また、アニミズム的発想―つまり「生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方」には影響を受けている自覚がある。例えば、何か大切にしていたモノを傷つけてしまったときは、謝りたい気持ちになったりする。
なお、以前は不可知論(物事の本質は人には認識することが不可能であるとする哲学上の立場)の姿勢を取っていたが、その後「だから何?キモ」という考えに変わった。

だが、そうした体系づけられた考え方よりも、私は自分の感性・感覚を信じたい。というか沿っていきたい。

宗教を信じる必要はあるのか

巷の宗教には、私にとっても「良い」と感じる教義・教訓が、探さずとも沢山あるだろう。
だからといって、「一部が良いから全体を信じる」というのは盲目的だ。
良いと思う教訓があれば取り入れればいいだけであって、どっぷり浸かって染まるのとは意味が違う。

例えば留学中、「日本が好き?」「コロンビアが好き?」などという質問はよく投げかけらたものだったが、この手の漠然とした質問に、シンプルに「YES」や「NO」で答えることはできない。
好きなところもある。そうじゃないところもある。それが健全だ。キュウリが好きかどうとかとは次元が違う。

もし仮に「絶対的に正しい道」や「絶対的に正しい考え方」が存在するのだとしても、そのような目の前に示されたものを鵜呑みにするのではなく、「自分で逐一判断・選択する」「自分で導き出し、切り拓く」方が合理的で、「他でもない自分の人生を歩んでいる」と私は考える。

自ら考えることができないのであれば、自分にとって何がいいのかを感じることができないのであれば、物事に対して思考停止する以前に思考そのものがほとんどないのであれば、誰かが用意した思考体系の枠組みの中で生きた方が楽で安全だろう。「迷える羊たち」を導くのが牧羊犬の役割であり、キリスト教的には牧師の存在意義だ。

しかし、そうではないと思うのであれば、宗教やその他の思考体系を盲目的になぞるなんてことは不要であり、不毛であり、不幸かもしれない。それは自分の拠り所から、自分を縛る鎖に化けるかもしれない。時代や場所や立場によって「正しさ」や「素晴らしさ」は変わる。そんな儚く頼りない価値を拠り所にする必要などない。

宗教はせいぜい「自分の拠り所の一つ」程度でいい

何かを信じた結果上手くいかなければ、その宗教やら教えやらを恨むことになるくらいなら、自分を信じて、それで上手くいかなければ全て自分に責任があると考えた方が、厳しいかもしれないけれど建設的ではなかろうかと思う。

「宗教は人じゃなく神が作ったんだ」と叫ぶ人もいるかもしれないが、例えば仏教一つ取っても、仏典の解釈などによって数多の宗派に分かれていることからも、もはやそれは基本的に「お前と同じ人間が考えたもの」と言っていいだろう。

冒頭で述べた通りだが、全てを否定するつもりはない。宗教に何を求めるかは人それぞれであり、温度感も様々だ。狂信的な原理主義過激派もいれば、あくまで基本指針として心に抱いているだけという人もいる。
また、宗教の存在が地域コミュニティ内に交流や助け合いを生み、結束を強化しているという側面もある。家に籠もる独居老人にとって、日曜朝の教会はまたとない憩いの場であったりする。

宗教だけを特別視するのはおかしい

人は皆、何かしらを拠り所にして生きている。皆個々やコミュニティ(組織・地域・国家など)の価値観、社会規範などを多かれ少なかれ信じて生きている。だから、ことさら宗教に関してそのような感想を持つのもどうなのだろう、とも感じたりする。
そして、個人的思想や価値観などというものも、生まれたときから身に付けているものであるはずはなく、結局は様々なものに影響を受ける中で化学反応を起こしながら築かれていくものにすぎない。

オリジナルであれ

宗教でも哲学でも東洋思想でも教育理論でも、友だちが言っていた刺さる言葉でもネットの知らない誰かの戯言でも何でも、様々な考え方から自分が良いと感じるものを柔軟に汲み取ってブレンドし、自分の思考・経験をベースに自分のオリジナルの思考体系を作ればいい。

そしてそれは不変のものではなく、柔軟に更新・修正されていくものだ。特定の一部のアレコレに思考停止的に迎合するのではなく、自分の感性に沿って付き合っていけばいい。

2018某日 執筆
2023/6/29 加筆修正

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