【やはり持っている】斎藤佑樹さんの凄まじさを列挙する【伝説】

紹介

2021年10月1日にプロ野球現役引退が発表された日本ハムの斎藤佑樹さん。

早稲田実業のエースとして甲子園で優勝を果たした2006年夏、マウンド上で青色のハンカチで汗を拭う姿から「ハンカチ王子」として全国的に名を轟かせたのち早稲田大学に進学し、大学野球に革命を起こすほどの人気と実力を放った。
3年秋からは実力に陰りが見え始めるも4年秋にはリーグ優勝や全国優勝の原動力となり、ドラフト4球団競合の末に日本ハムに入団後は2013年に発覚した故障もあって期待されたような活躍ができず、「半価値王子」などとしばしば批判に晒されながらも根強いファンも多く、活躍せずとも多くの注目を集めてきた。私もそんな一人であり、高校・浪人時代は新聞のスポーツ欄でよく彼の名前を探していた。

「持っている」と度々言われてきた斎藤さんであるが、彼がいかに「持っている」人間なのか、この記事で列挙していく。

小中時代

松坂大輔が甲子園で優勝した1998年、小学4年だった斎藤さんは本格的に投手を始める

・群馬県の地元学童野球チームで主将を務める(この頃から既に周囲を率いる能力を発揮)
・入学した中学の軟式野球部は部員の足りない弱小チームだったが、試行錯誤を繰り返しながら同級生を説得して10人集める
・その結果、群馬県大会で準優勝、関東大会ベスト8まで進出(成功体験を積み上げる)
・早稲田実業の野球部推薦合格者のほとんどがボーイズやシニア出身の全国レベルの有名選手である中、学業成績がほぼオール5だったことも手伝って入学を勝ち取る

高校時代

・甲子園に第1回大会から出場しておりプロ野球界屈指の伝説・王貞治の母校である名門早稲田実業に進学して1年からベンチ入りを果たす(部員総数は60-70ほどなので当然ながら3年ですら全員はベンチ入りできない)
・エースとして臨んだ2年夏の西東京大会では準決勝で日大三と対戦、本塁打を2本打たれ降板し、1-8でコールド負けを喫する(翌秋および翌夏の伏線。日大三はその後甲子園ベスト8)
・2年秋の都大会では副キャプテンとなり、日大三と二度目の対戦となった準決勝では事前の分析を活かして完封勝利を収めて夏のリベンジを果たし、その勢いで24年ぶりの優勝を決める
・2年秋の明治神宮大会では駒大苫小牧の田中将大と投げ合い、10奪三振の力投を見せるも逆転され3-5で敗れて4強(翌夏の伏線)
・なお駒大苫小牧は決勝で関西高校を5-0で完封して北海道勢として初優勝を収める
・3年春に春夏通じて1996年以来10年ぶりに早稲田実業を甲子園へと導く
・甲子園デビュー戦となる初戦で(不祥事により出場辞退となった)駒大苫小牧の代替出場校であった北海道栄を4被安打完封、荒木大輔以来24年ぶりの選抜での勝利であり、早稲田実業として甲子園通算50勝目であった
・2回戦で関西高校と対戦し、延長15回の末に引き分け、再試合で1点差で勝利
・準々決勝でその年優勝した横浜高校に3-13で敗れるも8強に輝く(この年の横浜高校は決勝で21-0など5試合で54得点という高い攻撃力で優勝)
・当時早稲田大学4年で主将兼エースであった宮本賢からの助言により重心が安定してコントロールが良くなり、その後の活躍に繋がったとされるが、宮本は斎藤らと死闘を繰り広げた関西高校出身で、斎藤と同じく東京六大学秋季リーグで優勝し、翌年に斎藤と同じく日ハムに希望枠(実質ドラフト1位)で入団している(なお宮本は引退の翌年である2013年に強姦及び強制猥褻で逮捕されている)

選抜準々決勝・横浜高校戦

・3年夏の西東京大会決勝では4年連続夏の甲子園出場を狙う日大三と三度目の対戦、延長11回の末に5-4でサヨナラ勝利
・そんなわけで夏の西東京大会において1997年から2005年までの9年間で準優勝1回、4強6回、8強1回とあと少しで甲子園を逃していた早稲田実業を10年ぶりに甲子園へと導く
・3年夏の甲子園2回戦では選抜優勝校の横浜(夏の神奈川県大会ではコールドが存在しない決勝を除く全6試合のうち5試合をコールドで勝利)を初戦で下した大阪桐蔭と対戦、のちにプロでチームメイトとなる未来の日本代表4番、89世代最強バッター中田翔を4打数無安打3三振に抑え、試合を通して計12奪三振で6被安打2失点の完投勝利
・なおこの時アルプスから試合を見ていたであろう当時大阪桐蔭1年の浅村栄斗らは2年後に数々の記録を打ち立てつつ夏の全国制覇を達成している(浅村はプロに入り大活躍)
・準決勝までの5試合完投勝利という活躍により早稲田実業は荒木大輔以来26年ぶりに甲子園決勝に進出
・3年夏の甲子園決勝で公式戦48連勝中であった駒大苫小牧と2年秋以来の再戦、延長15回を1-1で引き分ける
・決勝において1990年代から現在(2021年)に至るまでの甲子園の試合において最高の平均視聴率(NHK)を記録(29.1%。瞬間最高視聴率は37.1%)
・決勝再試合で9回裏2アウトから駒大苫小牧の世代最強エース田中将大を空振り三振で仕留めて優勝(13奪三振)

甲子園優勝の瞬間

・早稲田実業は王貞治や荒木大輔の頃も成し得なかった甲子園初優勝を達成
・全国の強豪校が目指していた駒大苫小牧の(中京商業以来73年ぶり2校目の)夏三連覇を阻む
決勝再試合含む全7試合を1人で投げ抜いての優勝であった

優勝後、駒大苫小牧の田中と

・そんなわけで大会最多投球イニング69回および大会投球数948は甲子園記録
・一大会における奪三振78は板東英二の83個に次いで歴代2位
・全7試合を各3失点以下に抑え(決勝再試合を除けば2失点以下)、自責点は9で防御率は1.17を記録
・六番打者を務めて甲子園通算2本塁打を記録している
・マウンド上で汗を拭うのに使っていた青色のハンカチが飛ぶように売れる(ヤフオクでは定価400円のハンカチに一時1万円を超える値がつく)

選手権準決勝・鹿児島工業戦

・ハンカチ王子の愛称が全国的に有名となり、この年の流行語大賞トップ10にノミネートされる
・その活躍ぶりから野球界屈指の豊作の年とされる88世代は「ハンカチ世代」とも呼ばれていた
・8月末から9月初旬にかけて行なわれた日米親善高校野球では田中らとともに選出され、5試合のうち3試合で先発して2勝、12回で計20奪三振を記録
・9月に兵庫県で開催された国体では高校現役最後の試合となる決勝で前年の国体優勝校でもあった駒大苫小牧と4度目の対戦、自らの適時打で1-0で完封勝利して優勝(この試合も最後の打者は田中将大で、駒大苫小牧との対戦成績は2勝1敗1分。早実の国体優勝は29年ぶり2回目)
・この決勝で使用された高砂市野球場は「ハンカチ・メモリアル・スタジアム」と命名される

その後この名称は斎藤さんがハンカチという呼称を毛嫌いしていたという話もあり自然消滅

・斎藤単独の写真集や斎藤をモデルにした曲「青いハンカチ~君がくれた夏の日~」のCDが発売される
・夏秋連覇は前年の駒大苫小牧に続いて8チーム目(6チーム目は松坂大輔がいた横浜で、春夏秋連覇)
・ただ野球だけをしていたわけではなく、偏差値75の早稲田実業での厳しい勉強と両立

大学時代

・早稲田大学史上初めて、1年生で東京六大学野球春季リーグの開幕投手を務めて初勝利を収める(6回1被安打無失点。同リーグでの1年生春の開幕投手勝利は80年ぶり)
・春季リーグでは1年生として16年ぶりとなる4勝を挙げ、チームの全10勝のうち6勝に絡む活躍により最多勝とベストナインに輝く(1年生投手のベストナインはリーグ史上初)
・39度目の優勝に王手がかかった早慶戦でも勝利投手となる(観客は3万6千人)
・第56回全日本大学野球選手権大会では2回戦と準決勝と決勝で先発していずれも勝利投手となり、33年ぶり3回目の大学日本一に大いに貢献して1年生として史上初のMVPを受賞
・第36回日米大学野球選手権大会では日本代表に選ばれ、1年生投手として史上初の勝利投手となるなど活躍して敵地開催で初の優勝
・春季リーグの早稲田大学戦に訪れた観客総数は前年度の3倍近くに膨れ上がった
・1年秋のリーグでも開幕投手を務めて勝利、1年生投手が春秋とも開幕戦勝利投手となるのは80年振り
・1年秋は最多勝(4勝)と最優秀防御率(0.78)と2季連続のベストナインに輝きリーグ3連覇の立役者に(与四死球率は1.55でリーグ最少)
・2年秋では背番号1を背負って7勝1敗の成績を残す(もちろん最多勝とベストナイン)
・早稲田大学野球部100代目主将に任命される

1年次から第一線で活躍した斎藤さん

・4年次の秋リーグ、大学通算30勝がかかった試合でリーグ戦35連敗中の東大相手に7回3失点で逆転負け(そのシーズンでの東大の勝利はその試合のみ。その後東大は94連敗)
・4年次に自己最速150km/hを記録(プロ時代の最速は147km/h)
・4年生最後のリーグ戦での最終試合は慶應との優勝争奪戦(50年ぶりの早慶での優勝決定戦)であり、8回途中までノーヒットノーランの快投で優勝を決める

大学最後のリーグ戦を制し胴上げされる斎藤さん

・「何か持っていると言われ続けてきました。今日何を持っているのか確信しました。それは、仲間です」というセリフが流行語大賞の特別賞を受賞
・世界大学野球選手権大会と日米大学野球選手権大会に大学日本代表として4年連続選出される(史上初)
・東京六大学野球史上6人目の30勝300奪三振を達成(通算31勝15敗323奪三振で防御率1.77)
・通算31勝は東京六大学野球史上14位タイだが平成以降では3位(2021年10月現在)
・在学4年間を通して4度のリーグ優勝と2度の全国優勝に大いに貢献
・4年間8シーズンで4度の最多勝と3度のベスト9、最優秀防御率と最多奪三振を1回ずつ獲得
・明治神宮大会では準決勝で先発して勝利、東海大との決勝でも9回に登板してチームは優勝、胴上げ投手となる

大学最後の試合で有終の美を飾る

・ドラフトではライバルと目された田中将大と同じく4球団から1位指名を受け、日本ハムに入団(チームメイトの大石達也は6球団から1位指名を受けたので、全12球団のうち10球団が早稲田大学の2人を指名したことになる。同じくチームメイトの福井優也は外れ1位で広島に入団したので同チーム3投手がドラフト1位入団となった。同じ大学から同じ守備位置の選手3人以上がドラフト1位指名を受けたのは史上初)

2010年のドラフトを席巻した早大トリオ

・札幌ドームにて単独入団会見が行われる(新人選手の単独入団会見は球団史上初)
・千葉県鎌ケ谷市の合宿所に入寮する際も大いに注目を集め、鎌ケ谷市にとって160億4451万円相当の広告効果が生まれたと試算される
・入寮した1月11日からの6日間は148番組で計16時間53分25秒報道された(同期間中のプロ野球全体の報道露出総計は149番組で17時間42分55秒であり、当時の斎藤さんへの注目度がよく分かる)

プロ時代

・プロ1年目からエースナンバーである背番号18を背負う(6年目まで)
・7年目から背番号1を背負う(引退する11年目まで)
・2011年4月に千葉ロッテマリーンズ戦で初登板し、5回4失点(自責点1)でプロ初勝利(北海道テレビのレギュラーシーズンの野球放送としては史上最高の29.4%という平均視聴率を記録)
・早速2011年に田中将大との対決が実現、この試合でプロ初完投(試合は1-4で敗れる)
・2012年に自身初の開幕投手を9回1失点でプロ初完投勝利で飾る(この試合の札幌テレビ放送での平均視聴率は31.6%で瞬間最高視聴率は39.4%と最高記録を更新)

開幕戦勝利投手となった斎藤さん

・2011年と12年にオールスターゲームに出場
・2016年に交通事故現場に遭遇して人命救助を行う

2017年に対横浜DeNA戦で623日ぶりの勝利を挙げる
(5回3分の0を投げて被安打5、失点1)

・60試合以上に先発登板して通算15勝以下の投手は日本プロ野球史上斎藤さんのみ
・751日ぶりの一軍登板となった引退試合では一打者を相手にフルカウントからの四球(奇しくも同月に引退試合を迎えた、甲子園優勝投手でもあり同じく世代を代表する存在であり斎藤さんの憧れの対象である松坂大輔も一打者相手に四球)

斎藤さんが甲子園で優勝したときの振り返りガッツポーズは松坂の影響によるものである(本人後日談

他にも「持っている」要素は枚挙に暇がない。今後も何かしら追記していくものと思われる。

【結論】斎藤佑樹さんは持っている

2021年10月にプロ現役引退が発表された斎藤さん

彼は高校卒業後すぐにプロに行っていればとよく言われるが、確かに大学時代に股関節や右肩を負傷していたとはいえ、甲子園大会史上最多投球数記録を保持しているほど高校時代から肩を酷使してきたのだから、故障は時間の問題だったのかもしれない。(まあ大学ではプロと違って連投が多かったりするので一概には言えないが)
多くの野球選手に言えることだが、故障していなければ今も活躍していたのかもしれない。

プロ野球での斎藤さんの成績

プロ1年目の成績は6勝6敗で防御率2.69。1年目がプロとしてのキャリアハイだった。
甲子園決勝で投げ合った田中とは事ある毎に比較されてきたが、この年の田中は19勝5敗で防御率1.27(最多勝・最優秀防御率・最多完封など)というプロ野球界トップの成績を収めるほどに成長しており、その対比は年を追うごとに残酷なものとなっていった。
たまたま投げ合いライバル的存在として世間に見なされた相手がたまたま日本一レベルの投手であったこと。良くも悪くも、これもまた斎藤さんの「持っている」ポイントだろう。

斎藤さんはあの夏から15年が経った今でもよくニュースに取り上げられる。
それと同時にネット上などでよく叩かれたり玩具にされたりしてきた。
大学時代などの密着取材の際の発言(「カイエン乗りてぇ」など)が馬鹿にされることもある。確かに「調子に乗っている」と感じる人はいるのだろう。
しかし、冷静に考えてみるべきだ。彼は当時まだ21歳そこら。世の大半の21歳を見ても分かるが、彼はまだ落ち着いている方だ。そうでなくとも、あまりに「持っている」日々を歩み、全国的にチヤホヤされてきた。あれを「調子に乗っている」と見なすのであれば、「調子に乗らない」方が難しい。当時の彼を馬鹿にするのはあまりに手厳しいのはないだろうか。

斎藤さんはプロで活躍できなかった割には長い期間をプロで過ごした。
その人気ゆえ、企業としては彼を「客寄せパンダ」として置いておくのが賢明だったからというのが大きいだろう。そのため、本人にとって良いのか悪いのか、努力しても活躍できない場に長く留まることになってしまった。とはいえ彼の存在が今に至るまで多くの人に勇気やエネルギーをもたらしてきたことは間違いない。
33歳の今、ようやく次のステージに進むことができる。プロに入ってからなかなか思うように活躍できず、「持っている」なんて言わなければ良かったと苦笑いしたこともあった彼であるが、今後もなんだかんだ「持っている」人生を歩むような気がしている。人のことをとやかく言えたものではないが、彼の今後を温かい気持ちで見守りたい。

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