異色の経歴でプロ野球入りした選手たちを列挙する

野球

100年以上の歴史がある日本プロ野球には、実に様々な選手が在籍した。

この記事では、通常あまり考えられないルートでプロ野球入りした選手たちを、列挙していく。

なお、気まぐれで実在しない選手も織り交ぜている。

史上最年少15歳でプロ入り

辻本賢人

辻本賢人(1989年1月6日-)投手

兵庫県出身。もともとボーイズリーグ「兵庫尼崎」で活躍していたが、中学入学後の野球部の練習が辛くてキツかったことから米国へ単身留学、アメフトに明け暮れる。

しばらくしてからふと球を投げたら驚くほど球が速くなっており、野球を再開し、全米大会にも出場。15歳ながら140km/h超の速球を武器に、阪神から2004年のドラフト会議で8巡目で指名を受けて異例の入団。豊作の年とされた88年世代でダントツで早くプロ入りしたのは彼ということになる。また、NPBに在籍経験を持つ選手として唯一の昭和64年生まれでもある。

しかし怪我などもあって一軍登板は叶わず、2009年に戦力外通告。その後再び渡米して独立リーグで主に中継ぎ投手としてプレーしたのち、ニューヨーク・メッツとマイナー契約、2013年に引退。現在は翻訳家として活動している。

100m走日本記録樹立後にプロ入り

飯島秀雄

飯島秀雄(1943年1月1日-)代走

茨城県出身。中学時代は野球部だったが、3年時に俊足を評価されて陸上大会の100m走に出場して2位となる。その悔しさから高校進学後は短距離走に転じ、3年時にはアジア競技大会最終予選で高校日本タイ記録(当時)の10秒5をマーク。

早稲田大学競走部を経て茨城県庁に就職。1964年の東京オリンピックと68年のメキシコシティオリンピック(この大会で初めて10秒の壁が突破される)にも出場。100mの自己ベストは手動で10秒1(元日本記録)、電気計時で10秒34。

オリンピック後は「足を生かした仕事をしたい」と考えていたところ、知人などを介して話がまとまり、1968年のドラフト会議でオリオンズから9位指名を受け入団。世界初の代走専門選手となった。球団が飯島の足に5000万円の傷害保険をかけるなど話題となった。3年の在籍で117試合に出場し、23盗塁、盗塁死17。(もちろん打席数は0で、守備にもついていない)
徹底的にマークされたこともあり期待されたほどの盗塁数は稼げなかったものの、相手投手にはプレッシャーとなっていたのか、飯島が塁に出ているときのチーム打率は4割を超えたという。

引退後は球団で1年間ランニングコーチを務め退団。陸上競技に関わりながらも職を転々としたのち、1979年から水戸にて「飯島運動具店」を営む。1983年に車で死亡事故を起こして交通刑務所に10ヶ月服役。2021年の東京オリンピックでは聖火リレー走者に選出。

医学部医学科在籍中にプロ入り

浜岡健誠

浜岡健誠(1991年7月10日-)内野手

大阪府出身。小学2年時から野球を始め、関西屈指の進学校・大阪星光学院中学校在籍中も「生駒ボーイズ」でプレーを続け、高校進学後は野球部に所属。高校の規定により2年の夏で部を引退するも、受験勉強の傍ら近所の大学野球部の練習に参加するなどして野球を続け、幼少期より志していた外科医になるべく、大阪大学医学部医学科に入学。

阪大野球部に入部後は、2季連続での3打席連続本塁打などの活躍により、近畿学生野球リーグで3部に落ち込んだ同部を1部3位にまで躍進させる原動力となり、2度の首位打者と3度のベストナイン選出を果たす。4年の秋、仲間たちと遊び半分でプロ志望届を提出したところ、その打撃センスと高い守備力を見込んだ広島から6位指名を受ける。医学科の在籍年数は6年のため、大学を休学する形で入団。休学可能期間は最大で連続2年までと定められていたため、2年以内に進路を決断すると宣言した。

ファームではデビュー戦こそ本塁打を放つも打率1割台と低迷。このまま続けてもプロとして活躍できるイメージが湧かないとして2年弱で引退。復学を経て医師国家試験に合格。バットをメスに持ち替え、外科医として大学附属病院で勤務。

ソフトボール出身(硬式ほぼ未経験)でプロ入り

大嶋匠

大嶋匠(1990年2月14日-)捕手・内野手

群馬県出身。小学校までは軟式野球をしていたが、入学した中高一貫校には野球部がなく、ソフトボール部に入部。高校のソフト部は強豪であり、高校総体と国体で優勝を経験。早稲田大学進学後の2008年にはU-19日本代表の四番打者として国際大会にも出場。U-23ワールドシリーズでは優秀選手賞を受賞。ソフトボール界で広くその名を知られた。

2011年、4年時の4月から月に数回程度、野球の練習会に参加し、10月に日本ハムの入団テストを記念受験したところ長打力などを評価され、同年ドラフト会議で7位指名を受け入団。翌年の春季キャンプの紅白戦では初打席でバックスクリーン直撃の本塁打を放ち、早速片鱗を見せる。2014年に一軍で初出場を果たす。

2018年に戦力外通告を受け引退。実働3年で20打席18打数4安打。ソフトボール球界では役所の強豪チームが多かったことから、高校時代から漠然と役所で働きたいという憧れを持っていたそうで、現在は地元群馬県で市職員を務めている。

始球式での剛速球を契機にプロ入り

高尾昇

高尾昇(1981年9月12日-)投手

熊本県出身。小学4年で野球を始めて投手を務め、中学でも野球部に所属するも、部内の上下関係に嫌気が差して退部し、陸上部に移り頭角を表す。

1999年、やり投げの選手としてアジア大会に出場するなど活躍していた高校3年時、地元で開催された国体の硬式野球の試合で始球式投手を務める。かねてより「野球に適性のある投げ方」と一部の野球関係者から注目を集めていたその強肩から繰り出された渾身のストレートは151km/hを記録。視察に訪れていた複数球団のスカウトが接触し、同年のドラフト会議でソフトバンクから6位指名を受け、入団。

日本人初の160km/hも狙える逸材として注目を集める中、翌年春季キャンプの紅白戦で156km/hをマーク。しかし制球とフィールディングに課題があり、二軍と三軍での調整が続く。翌年、制球難からチームメイトの頭部に死球を当ててしまったことにショックを受け、軽度のイップスを発症。回復するもフォームを大きく崩す。体が慣れないうちから過酷な練習を続けたことで肩を故障し、手術を経て復帰するも球速は130km/h台にまで落ちる。一軍登板機会のないまま戦力外通告を受け、2002年に引退。

その後アメリカ留学を経て、不動産会社に勤務。やり投げを続けていればオリンピックに出れたのに、と揶揄されることもあるが、悔いはないという。

スキャンダルを発端として渡米、逆輸入でプロ入り

多田野数人

多田野数人(1980年4月25日-)投手

東京都出身。八千代松陰高校3年時の夏の東千葉大会で、4回戦を除く全試合を無失点に抑え(防御率0.23)、チーム打率.196の同校を甲子園出場に導く。(甲子園では、準決勝で松坂大輔擁する横浜との熱戦を繰り広げたPL学園と初戦で当たり、敗れる)

立教大学では1年時から活躍し、秋には18季ぶりのリーグ優勝に貢献。通算56試合に登板し20勝16敗、防御率1.51、334奪三振の成績を残し、ベストナインや第1回世界大学野球選手権のメンバーにも選出される。

2002年ドラフト会議では目玉選手の1人として上位指名が確実視される中、ゲイビデオに出演したことが露呈するというスキャンダルにより、指名を受けることなく渡米。クリーブランド・インディアンスとマイナー契約を交わし、2004年にメジャー初登板。実働2年で14登板4先発、1勝1敗。

2007年に帰国し、同年ドラフト会議で日本ハムから1位指名(外れ外れの1位)を受け入団。2009年のロッテ戦で、9回2死まで無安打無得点に抑え、あと一歩でノーヒットノーランを逃すもプロ入り後初完投・完封を達成した。体調不良などにより2010年10月に戦力外通告を受けるも、12月に再契約。2014年に引退。通算18勝20敗。

引退後は独立リーグを経て日本ハムのスカウトやコーチとして活動。

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