「留学で何を学んだ?人生変わった?」と聞かれても困る3つの理由

価値観

私は学生時代、南米のコロンビアに1年ちょっと留学した。

今や留学に行く人は全く珍しくないとはいえ、確かにあまり見かけない渡航先ではあるが、それゆえか「留学先で(人間的に)学んだことは何?」「留学で何を得たの?」「それで人生はどう変わった?」などと尋ねられることも多い。(アメリカやイギリスに行っていても同じくらい尋ねられていたかもしれないが)

これは特に知り合ってからあまり時間が経っていない人に聞かれることが多いが、好奇心と同時に「コイツはどんな感性の人間なんだ?」と試されているような心地にさせられる。(就活のときもそうだった)

しかしそのたびに回答に窮してしまう。理由は主に3つ。

1つ目は、 かいつまんで抽出するには、期間が長過ぎるから。

私にとってこの質問は「学生時代に学んだことは?」という問いと同じようなものに感じられる。
確かに誰しも学生時代に学んだことはたくさんあるだろうが、色々ありすぎてパッと呼び起こすのは難しい。

尋ねられ方によってはコロンビアの人たちの主観的な幸福度が高いと言われる要因、ペルーのシャーマンたちの超次元的な価値観、文化や価値観、信仰の在り方、フレンドリーな人たちや家族のように接してくれる人たちの温かみなどといった外的要素について話すのも良いのかもしれないが、大抵の場合そういうのは求められていない。

2つ目は、そもそも劇的な学びや人生の変化など多分ないし、考えもしないから。

特別と見なされる何かを経験することで、何かしら学び、変わることが美徳であり、またそうであるべきだという考えが存在する。
海外に1年くらいいれば、自国ではできない様々なことを体験/経験でき、色んなことを感じて学び、何かしら人生や価値観が変わるはずだと思う人は少なくないだろう。

しかし、必ずしもそんなことはない。学びは日常的に存在するものだが、場所は変われども基本的に普通に生活しているわけであって、「さぞ凄い学びを引っさげて帰ってきたんだろう」と劇的な回答を期待されてもそれに応えるのは難しいだろう。

それに、意味ある学びとはいくつかの体験/経験の蓄積の中でほぼ無意識的に自然と体に吸収されていくものが多いように思う。だから「留学中」という限定のもとに回答するのは少々難しかったりする。
例えば交渉力なんてものは確かに留学中にも鍛えられたが、それは日本で生活していたときの延長でしかないので、「留学中に学んだこと/得たこと」と表現するには違和感がある。

Medellín

3つ目は、「学び」や「変化」という枠組みで体験/経験を抽象化して表現すると、大体陳腐になるから。上に述べた内容よりも理由としてはこちらが圧倒的だ。

「留学で学んだこと」「留学 得たこと」などとググってみて出てくる内容はどれも多くの人にとって、大して目新しくもない、共感できるものばかりだろう。

以下に私自身の過去の体験/経験と学びを例示する。

高校時代、描いていた漫画のデータを知らないところで消された
→データは紛失してもいいようにしっかりバックアップをとっておくのがよいと学んだ(以来データを三重くらいにバックアップしている)

大学2年次に交際相手の就活鬱に引っ張られて精神的に疲弊した
→相手と自分の課題を分離して、適度な距離感で支えるのがよいと学んだ

留学中に偶然に身を任せまくることで様々な素晴らしい経験ができた
→フットワーク軽く、オープンなマインドで偶然の出来事やそこからの流れに身を任せることの面白さを強く認識した

新卒時代、納得感の低いグレーな事業に携わることになり、神経を擦り減らした
→胸を張ってできる仕事を選ぶことが非常に大切であるということを強く実感した

無職期間中に色々あって体調を崩すなどして1ヶ月半の入院を余儀なくされた
→時間(人生)の大切さを痛感し、人生を有意義に過ごそうという意識を新たにした

いずれも学びの内容としてはありふれており、陳腐であると言える。

Aさんは交通事故で命を落とした人に関するドキュメンタリー映画を観たとする。
Bさんは友達の親が交通事故に遭って命を落としたとする。
Cさんは交通事故に遭って一緒にいた友人は亡くなり、本人も重傷を負いながらも何とか生還したとする。

それぞれの体験/経験から表現される学びは一様に「交通事故に遭わないように注意を払うのが大切だ」「一寸先は闇で、何があるか分からないのだから命を大切にしよう」「人生はいつ終わるか分からないのだから日頃から周囲に愛を伝えておこう」などといった内容かもしれない。そしてそれらは誰もが頷けるようなものである。つまりはこれらの学びも陳腐であるとも言える。

学びを口にするのは簡単だ。しかしもちろん、当然ながらそれぞれの重みが違う。
にも関わらず、ストーリーと紐付けて話したとしても、学びという名の結論がありふれた内容である以上、特にCさんは「へぇ、そんなことしか学べなかったの」と周囲からは思われるかもしれない。

学びの言語化に関するこのような葛藤は、留学に限らず様々な体験/経験において言えることだ。
留学というものは1つ目に示した通り、特にある程度の期間をかけるものだから尚更だ。かいつまんで説明した結果「そんなに時間をかけてそれだけ?」とか思われたくない。かといって2つ目に示したように、大勢を唸らせるような、新たな発見をもたらせるような、会心の一撃を持っていると自負しているわけでもない。(刺さる人もいなくはないと思うが)
だから結局、学びを表現すると陳腐になってしまう。なぜなら3つ目に示した通り、学びというものはほとんどの場合、大勢にとって新規性のあるものではないからだ。(cf.現代の人々の悩みや考察の多くは、既に何百年何千年も前に哲学者たちや市井の人々が一度は考えている場合がほとんどだ)

だからある種、自己防衛的に、学びを表現することを躊躇う。
少なくとも私はそうであるようだ。我ながらめんどくさい奴。

手っ取り早いシンプルな解決策は、もう少し質問の幅を狭めてもらったり角度を変えさせることだろう。留学中に印象的だった出来事とかそこで感じたことなどであれば、割と答えやすいはずだ。

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