限界集落とは
突然だが、少子高齢化社会と言われる現在、65歳以上人口が3割に達する日本において、限界集落は年々増えており、2016年の政府発表では14375の限界集落の存在が判明している。
さて、皆さんは限界集落とは何かをご存知だろうか。
限界集落とは、過疎化によって人口の半分以上が65歳以上の高齢者になり、労働力が不足することにより、共同体としての維持が困難になりつつある集落のことである。
共同体として存続するための「限界」を迎えているという意味で名付けられた。
なお、65歳以上の割合が70%を超えると「危機的集落」と呼ばれるようになり、それよりも深刻になると「超限界集落」を経て「消滅集落」となる。
丹波山村の基本情報
行くにあたって、東京近辺の限界集落について調べた。
すると出てきたのが、山梨県 北都留郡 丹波山村(きたつるぐん たばやまむら)。
・304世帯565人(男性286人/女性279人*2019年4月1日現在。全国1741市町村中1722位)
・人口密度5.22人/km2(全国1741市町村中1700位。cf.東京の豊島区は230万人/km2)
・山間にあり、多摩川水域(たばやまという名前は多摩川の多摩に由来)
・村内唯一の小学校である丹波小学校の全校生徒数は11人(平成31年度)
・村内唯一の中学校である丹波中学校の全校生徒数は13人(平成30年度)
・猿や鹿による食害発生のため、畑周辺には電気柵が設置
・鹿肉を使ったカレーや蕎麦や「鹿ばぁーがー」が村の名物
・村から一番近いスーパーは車で約40分
奥多摩の奥にある奥多摩湖のさらに奥の山間にある小さな村であり、なかなか限界集落感がある。
現在(2019年5月時点)は自治体として機能している上に、65歳以上の方は259人(45.84%)であるため、丹波山村は限界集落ではなく、近い将来に限界集落となる可能性の高い限界集落予備軍(準限界集落)であるとのこと。(記事作成にあたって役場の方に教えていただきました。ご対応ありがとうございました)
とはいえ、「消滅可能性都市」には含められている。
(*消滅可能性都市とは、平成26年に日本創成会議・人口減少問題検討分科会が提言した内容の中の「全国市区町村別「20~39歳女性」の将来推計人口」という推計の中で、ある基準に該当した896の自治体を指す)
まあ、(四捨五入すれば)限界集落ということでいきましょう。
丹波山村へ
ゴールデンウィーク最終日の朝、横浜駅前で集合し、いざ丹波山村へ。
車内では大学の後輩2人によるハイテンションな漫才が延々と繰り広げられた。運転席に座る社会人のYさんと私は、たまに会話に混ざりながら主にリスニングしていた。また、限界集落クイズを出題したりもした。
数多のトンネルをくぐり、奥多摩湖を横目に山間部を走り抜け、県境を越えていく。
2時間強で着くと思っていたが、結局3時間ほどかかった。
道の駅たばやまは、役場の目の前にあった。
ゴールデンウィーク中ということもあって、結構車が停まっている。アウトドア系の服装をした人が目立つ。
道の駅の食堂にて早速、名物「鹿ばぁーがぁー」を喰らう。
700円の割には小さかった。鹿肉の味の個性は、正直分からなかった。
タバスキー
この包装紙を見ると分かるように、謎のモンスターが。
丹波山村のマスコットキャラクター、タバスキーである。
それにしてもこの村、タバスキー推しがかなり強い。
電柱にも、
街灯にも、
お土産にも、
小学校の卒業制作にも、
いたるところにこのカービィのようなヤツが鎮座している。
そのうち着ぐるみでも湧いて出てきそうな勢いである。
あまりにタバスキーが多いので、
このようなタイプの車を後ろから見るとタバスキーに見えてしまうという後遺症がしばらく続くことになる。
にしてもコイツの由来は一体なんなのだろうか。
古い文献を引っ張り出して調べたところ、昔この地に、米倉鋤蔵(よねくらすきぞう)という人物がいたという。
丹波山村の鋤蔵、略して「たばすき」との愛称で可愛がられる、村役場に勤める小柄で純朴な男であったが、昭和初期に発生した関東大震災の際に未曾有の働きを見せて数多くの村人を救出、その指導力を買われてのちに政府高官として登用され、丹波山村第三伝説として語り継がれることになった。
一世紀近くが経とうとしている現代においても、村を災厄から守る神として、密かに崇拝されつづけている。村の奥のそのさらに奥には丹波鋤塚なる場所があり、等身大の銅像が祠の中に祀られt
・・・なんてことはなく、このシルエットは、丹波山の「丹」の字に由来しているらしいことは言うまでもない。
長いすべり台
ところでこの村には、全長247m、高低差42mの村営ローラーすべり台があり、村のシンボルと化している。
我々は早速現場に向かった。
こんなところにもタバスキーは平然と登場する。
平成2年に完成したこのローラーすべり台は、日本政府が1988年から1989年にかけて行った「自ら考え自ら行う地域づくり事業」、通称「ふるさと創生事業」の一環として各市区町村に対して支給された資金1億円の一部を使って建設された。
書かれている「日本一」とは、長さを意味していたそうだが、当時の役場の人間の調べが甘かったようで、完成から3日後に他所に抜かれてしまい三日天下に終わったという。
日本一「長い」とか日本一「速い」とは書いていなかったのが幸いしたとのこと。
昔の子供は山や川で遊んでいたが、今の子供はあまりそうではないらしく、このローラーすべり台があることによって子供が集まりやすくなっているという。
ここを滑るには、結構歩かなければならない。
頂上には天守閣がある。
途中で止まることもあるが、傾斜大きめのところは勢いが出て楽しい。
ケツが摩擦で死ぬのを防ぐために、ビート板的なものを下に敷いて滑るのだが、4人くらいで連結させて滑るとスピードが出る。
なお、すべり台は冬はやっていないそうなので注意。高校生以上は400円コミコミ(税・サ含)ですべり放題。
実際、結構楽しかった。
頂上からは村が見渡せる。
過去にこのすべり台で骨折・捻挫した人が何人もいるらしい。
皆さんも安全のために、タバスキーからのお願いは憲法並みに遵守しましょうね。
空き家
一見すると住宅が多いのだが、実際のところ空き家がかなり多い。
所有者がいない家もあるが、いるのに誰も住んでいない家も多々あるという。
お盆やお彼岸のときにお墓参りに行ったときに泊まりたい、遺灰を置きっぱなしにしているなどの理由により、人に貸さないからだという。
農業や林業、観光業が主要産業。猟師もたくさんいる。
地面に落としたとんがりコーンを拾って食べる、害獣ならぬ珍獣のKくん。
この表情である。
人口問題
人口は1950年代の2300人ほどをピークに、減少の一途を辿っている。
お店もそれに比例して減っており、例えば酒屋専門店もあったが、外の方が安いものが手に入るから買う人が少なくなったらしい。
高齢化が進んだことにより、お婆さん一人で店番をやるなどしていた店などは次々と畳んでいった。今でも民宿はいくつかある。
全校生徒10人程度の小学校と中学校はあるが高校はない。
1日に4本のバスしかなく、1本目が朝の8時過ぎ発であるため、1限に間に合わない。
だから皆、中学を卒業したら下宿して高校に通う。
と、ある方がおっしゃっていた。
昔は高卒でもなんとかなったが、仕事がないから建設業や林業に従事する人が多かったという。
高卒で林業などをするのは割に合わないという考えから、卒業後も帰ってこないケースが普通だったようだ。
「20年くらい経つ頃には村自体がなくなっているかもしれない」
高校生になって外に出て、村の不便さを感じると、戻ってこなくなる。
それでも戻ってくる人はいるが、仕事が限られるし、結婚すると配偶者の意向もあって結局外に出て戻ってこなくなる人も。
村を出て行った子の住む地域の介護施設に入居する高齢者も多いため、人口はますます減っている。
人口が少ないので、ほとんどは顔見知り。
やはりこれだけ小さい村ともなると、昔から噂はすぐに広まっていたようで、問題でも起こそうものなら住みづらくなりそうだ。
不便さ
この村、学習塾もスーパーもコンビニもない。
もともと村内にはタバコや米や駄菓子などを扱う雑貨屋はいくつもあり、村民はそういったところを利用するほか、保冷車の移動スーパー、生協に注文して受け取るなどしている模様。外に出てまとめ買いをして帰ってくることも。
20kmほど先、奥多摩にある山崎デイリーが最寄りのコンビニで、車で30分はかかる。東京方面にある一番近いセブンイレブンは30kmほど先。
山梨方面に向かって峠を越えて40kmほど先にセブンイレブン、50km弱先にローソンがある。
いずれも村民的には全くコンビニエントではない。
「不便な土地なのでそれを受け容れるしかない」
何十年も前は、台風などがあると土砂崩れで孤立してしまうこともあった。
今の老人たちはそんなときでも、畑で作ったジャガイモにミソつけて食べていれば何日か生きていられるなどと考えて気にしない人たちだった。
そんな彼らは、便利なところに連れていかれると便利すぎて逆に困るのではないかとのこと。
そんな風に、古くから住んでいる人は不便さに慣れているのでなんてことはないが、そうではない若い人には難しいだろう。
観光・村おこし
民宿が流行った頃はもっとたくさんの民宿があり、観光を盛り上げようという動きがあったが、高齢化の波には適わなかった。
地域おこし協力隊が来て、お祭りを考えたり、壊れた建物を修復したり、歴史ある道や場所(平将門が逃げたとされる道など)を辿るフットパスコースを作ったりといった取り組みをしているようだ。
色々と少ないなりに皆頑張ってやっている。
しかし、一時的に盛り上がっても、定着しなければ長期的には意味がない。
そもそも高齢者には新しい企画などを受け容れるような気質があまりない傾向にあるようなので、住民の考えが変わらなければ難しいところもありそうだ。
将来的に合併吸収などもあるかもしれないが、様々な魅力が残り続けてほしいと思う。
村の中の行事には大体皆参加する必要があるので、地域の連帯は強い。
昔から続いている祭りがいくつもある。
門松は本来松と竹だが、松が採れないので檜と竹で作っていた地域もあったという。
門松は人口減に伴い小さくなってきている。
祭りになると外部からたくさんの人がやってくる。
写真の法被を着ている人たちは村の人だが、それ以外の多くは余所から来ていた人らしい。
江戸時代から約350年の歴史を誇る7月中旬の伝統行事・祇園祭は、山梨県の文化財にも指定されている。
奥多摩地方独特の獅子舞を拝みに、この時期にも外部から観光客がたくさん訪れる。面白そう。
トレッキング、日本百名山の一つである雲取山の登山、肌がつるつるになると言われる温泉「のめこい湯」など、他にも見どころは色々ある模様。
ジビエ(狩猟で得た天然の野生鳥獣の食肉)も盛んで、鹿肉系の食がたくさん。
観光案内のパンフレットが充実していた。
おいらん堂
丹波山村の中に、おいらん堂という場所がある。
俗においらん淵と呼ばれる場所で殺害された人々を祀っている。
戦国時代、武田氏の隠し金山と言われた黒川金山を閉山するにあたって、鉱山労働者の相手をするため遊廓にいた55人の遊女と、金山に従事した配下の武士や坊主を、酒宴の興にと称して川の上に藤蔓で吊った宴台の上で彼女らを舞わせ、舞っている間に蔓を切って宴台もろとも淵に沈めて殺害したという伝説が残っている。(Wikipediaより抜粋・編集)
落石などの危険性を排除するためにトンネルを掘るなどした際に閉鎖され、現在は近付くことができないそうだ。
車で近付くとエンジンがかからなくなった、白い人の姿が見えたなどという噂がある。
小さな村
また丹波山村は、北海道・東北・関東・中部・中国・四国・九州の各ブロックから人口規模の一番小さな村(2015年国勢調査時点)が毎年集まるサミット「g7サミット」の発起自治体でもある。
この記事を書いているときにネットニュースで知ったが、かつてネット掲示板「2ちゃんねる」の無職だめ板というところで、「ニートが大量移住して村を乗っ取り、ニートパラダイスを作る」という計画が真剣に議論されていたらしい。
そこにいたニートたちには行動力が欠如していたため、実行には至らなかったが、何の罪もない小規模自治体である丹波山村がターゲットにされていたという。
記事を書く二日前にそれに関するツイートをした人がおり、「丹波山村役場」の公式ツイッターが「見なかったことにしよう(;´-`)」とリツイート、25000以上の「いいね」を集めている。
実際行ってみた身としては、現代のニートには不便すぎる環境であることは否めない。
が、豊かな自然に触れに、あるいは歴史を学びに、この小さな村をサクッと訪れてみるのもいいかもしれない。
今度行く機会があれば、山に登りたい。
2019.05.10
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