モラトリアム終了前放浪紀行②「バルセロナ4日目」

旅/紀行

2月12日

二段ベッドの下の男

気分転換と新たな機会獲得のためにHostel One Santsを出ると決めた朝、出発の準備を済ませて1階をうろついていると、キッチンで朝食を摂る二段ベッドの下のドイツ人Fabianの姿が目に映った。

既に何度か言葉を交わしていた同い年の彼に挨拶し、これからここを出て別の宿に行って、明日のバスでビルバオ(スペイン北部の町)に向かうと伝えた。バルセロナでの交換留学の終わりを目前に、毎日のように友達と出かけている彼に「今日はどこに行くの?」と尋ねる。友達とピカソ美術館に行くという。この日は無料で入ることができるのだそうだ。

調べてみると、新たに予約したホステルが割と近い。また、行きたいと思っていたMercado de la Boqueria(ローカル市場)もすぐそばにある。ピカソ美術館に少し興味が沸いた私は”Vamos juntos?”(一緒に行かない?)と提案し、そうすることになった。

地下鉄に乗り、近くの駅へ。そしてバルセロナの中で最も古いというクラシックなエリアを歩き、美術館に向かった。これまで色んな旅行者や在住者と出逢ってきたが、ドイツ人旅行者は傾向的に一番空気感が合うというか、一緒にいて居心地が良い。知的でおとなしめで落ち着いた人が多いように感じる。一方でフランス人やイタリア人旅行者は元気すぎる印象がある。あくまで傾向の話だが。

この日は曇っていたせいか花粉症的症状が軽くて比較的快適だった。とはいえ鼻水は出る。ドイツ人は鼻水を啜るのを嫌う(マナー違反)と聞いたことがあるので、なるべく啜らないようにした。

美術館は残念ながら予約受付が終了していた上に、長い列ができていてその場でチケットを購入するとなると結構時間がかかりそうだったので、私は入場しないことにした。そして、彼が出てきたらまた合流してMercado de la Boqueriaに一緒に行こうという話になり、一旦解散した。

解散前にその付近の見どころを色々教えてくれたが、散策するにはスーツケースとリュックが邪魔なのでまずは30分ほどかけて、この日の宿であるCasa Kesslerへと歩いて向かった。パスポートのコロンビアの入国スタンプを見て、何度か行ったことがあると話す女性スタッフの対応でチェックインを済ませ、身軽になってまた外へと繰り出した。

ここに来て、今朝までの拠点であったサンツはあまり栄えていないということに気付いた。Casa KesslerやMercado de la Boqueriaあたりにはお店がたくさんあって、夜も活気がありそうだ。翌日にはバルセロナを出ようと思っていた(本当はアンドラ公国かビルバオ行きのチケットをバスターミナルであるSantsで購入してからピカソ美術館に行くつもりだった)。
しかし、バルセロナはまだまだ楽しめそうだな、と散歩しながら感じた私は、少なくともあと2-3日はここにいようと決めて、Casa Kesslerに延泊の旨を連絡した。先日、バルセロナを2回訪れたことのある大学の友人Hに、どのエリアに滞在していたのかと尋ねたところ、海岸近くやグエル公園付近など、サンツとは違う場所だった。

特段社交的なわけでもない彼がバルセロナを楽しめた大きな理由の一つに、滞在エリアの活気というものがあったのかもしれない。バルセロナを離れるにはまだ早すぎる。

鳩の糞をくらうなどしながらも一足先にMercadoに辿り着いた私は、ある店のカウンター席に座り、肉系の料理とサングリアをオーダーした。雰囲気は、ペルーのCallao(首都リマに隣接する少し治安の悪い地区)にあるMercadoの豪華版という感じだ。

サングリアが素早く身体を巡り、気分が高揚していく。近くに日本人の団体が座っていた。大学生くらいの男女6人ほどと、「先生」と呼ばれる年配の男性だ。短期研修か何かなのだろうか。話してみたいと思ったが、席と席の間の空間が心理的な壁となり、結局何もできなかった。別に話しかけたところで、冷たくあしらわれるなんてことはないだろうに。

ボゴタ(コロンビア首都)やグアテマラとは違って、バルセロナの街を歩いていると日本人を見かけることはよくある。だから機会としての稀少性に欠け、話しかけるのも変かな、という意識が働いてしまう。そんな自意識過剰や防衛本能を打ち破り、自分が交流したいと感じる場面でも気さくに行動を起こすことができない自分が情けなかった。

しかしそんな曇った思いは、FabianとIsabelの登場によって瞬時に打ち消されることとなった。IsabelはFabianの大学の友達で、チリのカトリカ大学からの交換留学生だ。チャーミングという言葉が相応しい、明るくて優しい雰囲気の22歳の女性だった。てっきり大人しそうな男友達を連れてくるのかと思っていたので嬉しい誤算だった。

Mercadoの外に出て、街に点在するガウディの建築などについてあれこれ教えてもらいながら、とあるハンバーガー屋に入った。Fabianのスケッチを見せてもらう。私も小さい頃によく使っていた、水でボカす色鉛筆などで描いたスペイン各所のローカルな風景や建物の絵。繊細なタッチは、彼の性格を表しているかのようだった。2人に頼まれて日本語で名前を書いてあげたあと、Isabelの似顔絵をボールペンで描いた。Fabianはそんな私の似顔絵を描いたが、あまり上手くはなかった。

Fabianが小さなノートを取り出す。旅先で出逢った人に書いてもらうプロフィール帳のようなものだった。誰かしらからプレゼントとして貰ったらしい。「どこで出逢ったか」「自分にとって旅にはどんな意味があるか」「これまで行った中で一番美しかった場所」「ノートの持ち主にメッセージ」などという項目があった。

メッセージ欄には座右の銘の一つである”Our attitude towards life determines life’s attitude towards us.”と記した。Fabianと接していると、彼は繊細な人間なんだろうなということがひしひしと感じられる。だからこそ、落ち込むこともよくあるかもしれない。そんなときこそ思い出してほしいという思いを込めた。

それから近くのbarまで歩き、そこでビールを飲み、肉団子などを摘んだ。同じく人類学専攻であるIsabelに色々と尋ねられて、私の研究テーマであった歌舞伎町の人類学について少しだけ話した。詳しく話すのは難しいし長くなるし疲れるので、あくまで抽象的にだが。18時半頃に一旦解散し、Fabianと私はそれぞれのホステルに向かった。

ホステルで一息ついてから、20時頃に地下鉄に乗って、Fabianの友達のドイツ人留学生Lucasの住むアパートへと向かった。大きなアパートだった。何人かでルームシェアをしているらしい。すでに到着していたFabianと3人でくつろいだ。

Lucasはフランスやポルトガルを旅するFabianとは対照的に、3週間ある残りの留学期間を、バルセロナで過ごすのだそうだ。ヨーロッパ内での移動は時間もお金もあまりかからないし言語の壁もあまり大きくないのだから、いつだって旅行に行ける。ヨーロッパに来ること自体が大変な日本人とは違う。逆に彼らがアジアを訪れたときは、様々な国をせわしなく旅するだろう。それと同じだ。ヨーロッパの先進国の人たちの平均訪問国数は、日本人のそれを大きく上回るはず。

しばらくしてから3人でアパートを出た。この地で出逢ったFabianとLucasは、またドイツ国内で再会するのだろう。ひょっとすると今後何十年も付き合いは続くのかもしれない。彼らの別れのシーンを前に、私はカメラを取りだして、ツーショットを何枚か収めた。

そしてLucasはサッカーの練習へ。私とFabianは21時半開演のフラメンコ劇場にどうやって行こうかと話した結果、「きっと楽しいよ」というFabianに従って彼の漕ぐ自転車の荷台に乗り、劇場に向かって真っ直ぐな坂道を風を切りながら下っていった。

フラメンコ劇場に開幕5分前くらいに着いた私たちは、Fabianの大学の友達でありイタリアからの交換留学生であるMaryと合流し、建物へと入った。ドリンク付きだったのでシャンパンをオーダーし、端の方の席に座る。ダイナミックな動き、リズミカルな音楽、堂々とした姿勢や顔つき、何を言っているのか分からないが力強い歌声に私は魅了された。フラメンコでも演劇でもいい、舞台の上で自分の身体を使って表現するようなことをしたいと感じた。高校のとき、興味はあったけど結局入らなかった演劇部に入れば良かったな、と後悔した。途中から強い眠気に襲われ、頭をコックリコックリと上げ下げしながら、1時間の公演の終わりを迎えた。

3人で外に出た。目は充血していて、眠気も残っている。ホステルに帰ってもいいと思ったが、3人で飲みにいくことになった。騒がしめのバルに入る。Fabianは私と同じく騒がしい場所が苦手のようで、そのバルの中でも比較的騒音がマシなテーブルを囲み、またハンバーガーをオーダーした。Maryは生物系のマスターのようで、勉強ガチ勢らしい。ドイツとイタリアと日本という顔ぶれは第二次世界対戦時の日独伊三国同盟と同じだ、と伝えると、Maryは驚いた顔をしていた。私たちには直接は関係のないことだが、時を超えて、違う形でこうしてその3ヶ国の若者が関わり合うことができているのは、なんだか感慨深いことだ。

IsabelやLucasや私に対してもそうしたように、FabianはMaryに例のノートを渡した。Isabelはそれに自分の証明写真を貼り付けるなどしていた。また、Fabianは自分がスケッチした様々な絵をコピーした小さな紙を私たちにくれた。2枚貰ったうちの1つに、彼からのメッセージを書いてもらった。10分くらい経ってから手渡されたその紙にはこう書かれていた。

Enjoy your trips and discover new places with open arms! I hope you will see amazing places, meet interesting people and just enjoy life! A smile gets always reflected by another one regardless of where you are. All the best, Fabian

旅を楽しんでオープンに新しい世界を見つけよう!素敵な景色を見て、素敵な人たちで出逢って、人生を思い切り楽しめるよう願っているよ。どこにいようとも、笑顔はいつだって笑顔を呼ぶんだよ。ごきげんよう。

確かにこの日、私はいつもよりも笑顔だった。それはサングリアやビールのお陰でもあったと思う。しかしそれ以上に、異国スペインで偶然にも巡り逢ったFabianやIsabel、LucasやMaryたちと一緒に時間を過ごすことができたその事実に、一人旅の孤独感や閉塞感という状況も手伝って、心から喜びを抱いていたからでもあった。何にせよ、笑顔は大切だ。私が終始仏頂面だったならば、彼ら彼女らと一緒に楽しく過ごすことなどできなかっただろう。

店を出てMaryと別れ、私とFabianも解散すると思われた。しかし、もう一軒行こうということになり、近くにあったLa Oveja Negraという学生御用達のバルに赴き、ビールを一杯ずつ飲んだ。彼はボルドー、マドリード、リスボンを廻ってまたバルセロナに戻り、ドイツに帰る。かなり前から旅程を決めて、移動手段のバスや飛行機を予約していたようだ。根がおとなしめなのは似ているが、いつバルセロナを去るのかも、そのあとどこに行くのかもまだ確定していない私とは対照的な、慎重で計画性の高い男だ。そんな私たちが偶然にもホステルの同室の二段ベッドの上段と下段という関係性からこうして親しくなれたのは、旅ではよくあることながら、やはり嬉しいことだ。

ビールで潤った喉は、ポップコーン無料提供という店の策略によって幾分渇いてしまっていた。店を出て、少し傾斜した道路にカメラを置いてツーショットを撮ってから、Maryと別れた場所で抱擁と握手を交わし、”Vamos a disfrutar la vida”(人生楽しんでいこう)と告げてそれぞれ反対方向へと帰っていった。

外国人は言葉も通じにくいしバックグラウンドも大きく違うので、関わることそれ自体が(意識的であれ無意識的であれ)不安を伴いやすい。だからこそ少し仲良くなっただけでも「いいヤツだった」という印象を抱きやすいのではないかとも思う。たとえそうであったとしても、短い時間の中で、彼との間に絆のようなものを確実に感じていた。国や人種、文化を超えて、こうして時間を分かち合うことができたことに、私は心が満たされていた。

またどこかで会うかもしれない。マドリードで会うのもいいねと彼は言ったが、一日中一緒にいたからか、もっと先でいいと感じた。しかしまたいつかどこかで。そのときはお互いにもっと英語なりスペイン語なりを上手く扱えるようになっていて、会話も弾むことだろう。

旅の醍醐味である人との出逢い、交流ー。この良き日に満塁ホームランの評価を下した。

旅の意味

Fabianの小さいノートの中にあった「あなたにとって旅にはどんな意味があるか」という項目。私はromanticism(ちょっと違うけど浪漫のつもりで書いた), serendipity, myselfなどと書き込んだ。改めて、私にとって旅とは?

・偶然(偶然による思いがけない出逢いや発見、幸福。セレンディピティ)
・浪漫(物語としての美しさやドラマ、夢や冒険をもたらすもの)
・気付き(何か新しいものや機会に触れて、そこから得られる気付きや学び)
・自分自身(旅に限った話じゃない。でも旅には各々の価値観や性質が時に色濃く表れる。旅とはダイナミックな鏡でもある)

世界進出

1960年、8000万の人口を抱えていた日本から海外に渡航したのは延べ人数にして1万分の1の8000人程度に過ぎない。当時の日本人にとっては日本に生まれて日本で生きて日本で死ぬというのが圧倒的に当たり前のことであり、外国を旅したり外国人と友達になったり恋愛をしたりということはほとんど有り得なかったわけだ。

それから約60年の年月が流れて、今や毎年日本人の6人に1人が海外に渡っている。つまり私たちは地球に住んでいる。これはあまりに凄いことだ。そんな時代に生まれてくることができて本当に良かったと思う。

Nの行く先

大学1年の夏からの親友であるNと電話で話した。彼は7月くらいから共通の友人Jとアフリカに渡る。プロサッカー選手としてプレーしていくというJのYouTube活動のサポートが主なミッションだが、彼自身様々な可能性を模索したいようだ。

何十社も受けた就活では一つも内定を貰えなかった男が、諸々吹っ切れてアフリカに渡るー。ストーリーとして面白いじゃないか。どうなるのかしらないが、JもNも、やりようによってはかなり面白い人生を歩むことになりそうだ。そして私も、違った形で自他共に認める面白い人生を歩んでいこうじゃないか。

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